GALLERIES
ミャンマー美術に多少とも関心のある人なら知らぬ者はいない、インヤーギャラリー。著名芸術家アウンミンが主宰し、表現の自由が著しく制限されていた軍政下にあっても自由な表現を追い求めた伝説の画廊だ。
歴史にさん然とその名を残すこの画廊、実をいえば筆者は、既に存在しないものと思い込んでいた。地元情報誌の画廊リストにも名前がないし、誰かが個展をここで開いたという話も耳にしていなかったからだ。しかし、かつてここで育ったというアーティストのインタビューの折、いまだインヤーギャラリーは健在だと知った。
1962年に軍事独裁政権が樹立して以降、ほんの数年前の2012年まで、ミャンマーのアートシーンは半世紀にわたる長い暗黒の時代を過ごした。画廊で作品を展示する際は、警察などいくつもの政府機関による検閲を何重にも受けねばならず、多くの作品が展示を拒否された。しかもアーティストたちは政治批判をしたとして、次々と投獄されていったのだ。
1988年になると、3月に学生デモと治安部隊が衝突して学生が亡くなった。8月8日にはさらに大規模な民主化デモが勃発し、武力で押さえ込もうとした軍が多数の市民を殺害。これを受け8月26日には、政治家としては当時無名だったアウンサンスーチーが歴史に残る名演説をし、民主化の象徴的存在へと駆け上っている。この民主化運動のエポックメイキングとなった1988年の暮れ、インヤーギャラリーは誕生した。
いまやミャンマー美術界の重鎮アウンミン
インヤーギャラリーは画廊というより自宅だ
当時、すでにモダンアートの旗手として名を馳せミャンマー美術界の中心にいたアウンミンは、インヤー湖近くに建つ自宅の庭にある竹造りのガレージをアーティストたちに開放した。これがインヤーギャラリーの始まりだ。
「一般に公開する画廊は検閲を免れえませんが、クローズドな空間でなら検閲もなく、自由な表現ができます。当時、自身の作品を含め、仲間の作品の多くが検閲ではねられ、発表の場を失っていました。このままではミャンマーのモダンアートは死に絶えてしまうという、切実な思いがありました」と、アウンミンは当時を振り返る。
ギャラリーといっても絵の売買はせず、いわばワークショップ。毎晩2時間だけオープンし、様々なアーティストが集って展示やパフォーマンス、ディスカッションを繰り広げた。金銭的利益とは無縁だったが、それゆえに検閲のない自由な作品造りができた。
活動の中心となったのはアウンミンのほか、サンミン、MPPイェミンなど。後にパフォーマンスアーティストとして頭角を現すエイコーはじめ、多くの若手芸術家が集っていた。海外から駆けつけたアーティストとコラボレーションすることもあり、世界のアートシーンから隔絶した環境にあったミャンマー人アーティストたちにとって、得るものが実に多かったという。
路地の入口に立つささやかな看板
インヤーギャラリーへ続く明るい路地
2018年某日、アスファルトからの照り返しが顎のあたりをちりちりと灼きつける猛暑のさなか、インヤーギャラリーを初めて訪れた。クネクネと曲がる住宅街の道を進むと、ある路地の入口に小さな看板が立っていた。確かに「インヤーギャラリー」と書いてある。その奥に、ピンクの花をつけたブーゲンビリアが覆いかぶさる鉄製の門が見えた。
門には鍵がかかっており、呼び鈴を押すと壮年の男性が出てきて開けてくれた。アウンミンの親族だという。冷房の効いた室内に足を踏み入れるや、戸惑ってしまった。どうみても普通の家なのだ。現在、「インヤーギャラリー」の看板を掲げるここは、アウンミンの自宅兼アトリエで、竹造りのガレージがあった家から数年前に引っ越したそうだ。
検閲の廃止とアウンミンが体調を崩しがちなこととで、今はまれにしかギャラリーとしての活動はしていない。伝説の画廊は、やはりもうなくなってしまったということなのか。インヤーギャラリーが自由な芸術表現ができるヤンゴンで唯一の場だったというなら、検閲のない今のヤンゴンは、街全体がインヤーギャラリーになったと考えたい。
蚊が飛び交う蒸し暑い竹のガレージに満ちていたであろうアートへの爆発的な熱気は、果たして今、ヤンゴンの街全体を覆っているのだろうか。