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インドネシアでのアート・コレクティヴの活動 -その1-

二つの時代 - ポスト新秩序から地方分権の時代へ

Indonesia

ガタリ・スルヤ・クスマ(Gatari Surya Kusuma)/ 訳:藪本 雄登

現代のインドネシア(1998年の新秩序時代以降)の文脈でアート・コレクティヴ(art collective、アーティスト集団)を論じるとき、アート・コレクティヴィズムは単に集団での問題対処や実践の一形式ではないことがわかる。アート・コレクティズムは、時代精神やその実践としても役割も果たしている。このことは、政権に反対するために生まれた運動が集団を基盤とした運動であったという、視覚芸術の歴史的経緯において辿ることができる。次の章では、このことについて、さらに詳しく検討する。
 
さらに、インドネシアの美術史の経緯を見ると、1990年代後半から2000年代前半にかけてのアート・コレクティヴの台頭は、新秩序の終焉を称賛する時代精神を示すもので、改革の時代としても知られている。スハルト大統領(Haji Muhammad Soeharto)の独裁時代、つまり「新秩序の時代」には、政府による監視が家庭内や個人のプライバシーにまで及んでいた。これには国民の意見や活動の監視も含まれていた。法的に登録されていない団結や団体設立を禁止されることもあった。当時、この種のグループは「野蛮」なグループと呼ばれていた背景がある。
 
アート・コレクティヴィズムは、抑圧的な体制の終焉を称賛する時代精神であると同時に、アートスクールの卒業生がアーティストになるため、純粋な集団的な生存戦略でもあった。また、この方法に創作活動に取り入れ、集団的な精神を資本主義的な価値観に完全に委ね、最終的にはすべてを数字や生産性で計算するようになったケースもある。これは、2000年代までに登場し、存続しているアートコレクティヴとは対照的だ。これらの集団は、公共空間での生産的な作品に加えて、集団内部での保守的な作品にも重きを置いていた。
 
アート・コレクティヴィズムを運動として取り上げるとき、間違いなく、そこには、この実践を他の運動と共鳴させる響きがあるのは確かだ。ここでは、運動の背景を、公共空間で生まれたある特定の活動だけに限定するつもりはない。むしろ、生き残り手段としての集団的精神と結びついたコレクティヴィズム(集団主義)は、保守的制作を積極的に集団的実践に取り入れるものを含めることにする。しかしながら、コレクティブヴィズムが、より広い視野への発展の主導権を握る影響力になるために、野心的な人物を輩出する運動も少なからずある。そのような傾向がこの文章を制限している訳では決してなく、むしろその傾向を、「新秩序の終焉」、そして「インドネシア・ニュー・アート・ムーブメント(インドネシア新芸術運動)」の影響を踏まえ、現代アートが大々的に喧伝され、同時に議論されている時代である現在までに生まれたコレクティヴの広がりと多様性を理解するためのツールとして用いている。  
  
本書では、インドネシアのアート・コレクティヴがどのように出現し、成長し、散在していったのかを議論し、分析を行うつもりである。そして、時代の変化の中で課題が生じたとき、アート・コレクティヴの機能は変化してきたのか、アート・コレクティヴがアート活動の選択肢となる理由は何か、といった質問への回答を模索していく。

第一の時代: インドネシアのニューアート・ムーブメント(GSRB: Gerakan Seni Rupa Baru Indonesia)におけるコレクティヴの精神とポスト新秩序アート・コレクティヴの盛り上がり

インドネシアのニュー・アート・ムーブメント(インドネシア新芸術運動)[1]に関する溢れんばかりの記録を調べていく中で、ジム・スパンカット(Jim Supangkat)の著作を見つけた。この運動に密接に関わる者として、彼は、この運動がどのように成長し、どのように衰退していったのかを、その運動のロマン主義や集団主義に陥ることなく、率直かつ客観的に述べている。インドネシアのニュー・アート・ムーブメントは、現代美術史の一部である。この運動については、特にアート・コレクティヴィズムを精神や運動として理解する上で、この文書で触れておく必要がある点がいくつかある。ひとつは、この運動の創設の理由であり、もうひとつは、その衰退の理由である。インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントの二つの重要な出来事は、現在と過去のアート・コレクティヴの精神を理解するアプローチとして役立っている。

美術評論家のジム・スパンカットは、『Sekitar Bangkit dan Runtuhnya Gerakan Seni Rupa Baru』(1983:32)と題した彼の著作の中で、インドネシアのニュー・アート・ムーブメントの始まりは、ジョグジャカルタのインドネシア美術アカデミー[2](ASRI Arts Academy)、現インドネシア国立ジョグジャカルタ芸術院(Indonesian Institute of the Arts, Yogyakarta)とバンドン工科大学の視覚芸術学部(Bandung Institute of Technology, Faculty of Visual Arts)という二つの美術学校から生まれたと説明している。両者ともに、教師と学生の間の芸術活動におけるイデオロギー的な緊張という、同じような課題に遭遇していたのである。インドネシア美術アカデミー(ASRI Arts Academy)の教師達は、感情の起伏と心に抱き続けている感情を高く評価した。そのため、定規などの測定器を使うことを禁止し、感情や気持ちが生み出す線に作品を委ねることを奨励していた。一方で、学生たちはそのルールがかえって自分たちの創作活動を制限していると感じていのであった。

同様に、バンドンの教師たちは、線よりも秩序や規律を重んじ、すべてのアート制作の過程で測定器を使用することを強調していた。学生たちは、これを自由というよりもむしろ制限と感じていた。この二つの状況が、若者の運動と密接に関連したインドネシアのニュー・アート・ムーブメントの出現を促したのである。 
 
ジョグジャカルタの教師と学生の間の緊張関係は、1974年にジャカルタで開催された「ジャカルタ絵画展」(Great Indonesian Painting Exhibition)で高まりをみせる。この展覧会では、ジョグジャカルタの新進アーティストたちが、装飾芸術を支持するかのような審査員の判断に異議を唱えた。実際に、ジョグジャカルタの教師たちは装飾芸術を支持していたのである。この抗議は、「黒い12月の声明」(Black December Statement)として広く知られる声明となった。当時、学生たちは「装飾芸術」を、単に美しさを表現しているだけで、本当はもっと広げられる芸術の機能を制限していると考え、反対していた。例えば、アートは政治的な状況を批判したり、簡単には表現できない日常的な問題を語るためのツールとして使用することができる。これは、新秩序政府によって表現の自由が抑圧されていた当時のインドネシアの社会的かつ政治的状況と共鳴するものだった。

この抗議行動は、最終的にキャンパス(当時のASRI Arts Academy、現在のIndonesian Institute of the Arts, Yogyakarta)による「黒い12月の声明」に参加した学生の退学処分につながった。この事件は明らかに、さらに強力で大きな運動の引き金となった。その後、ジョグジャカルタとバンドンの学生が集まり、集団戦略として、1975年までにジャカルタのタマン・イスマイル・マルズキで[3] (The first Exhibition of the New Art Movement、第1回新芸術運動展)を開催するに至った。
 
「黒い十二月の声明」や、若い学生たちが公然と教師を批判する行為は、自分たちの芸術表現や創作の自由を取り戻すための努力であった。彼らが求めたのは芸術を美学や装飾の域を超えたものにすることであった。それは、「アートは一つの物語だけに依存してはならない」、「アートはすべての視覚芸術を包含するものでなければならない」、「アートは合理的に表現され、解放の美学に基づいた主張を優先するものでなければならない」という三つのポイントが存在していた。 

  • The Black December

インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントの主な目的は、唯一の真実や、絶対的な巨匠としての非凡な人物を創造することの価値を支持するような、視覚芸術における障害を排除することである。これが、インドネシア・ニューアート・ムーブメントで植え付け、育てようとした精神である。実際には、育てることは始めることよりもはるかに難しく、1979年には、インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントは消滅することとなった。 
 
ジム・スパンカット(Jim Supangkat)氏は、インドネシアのニューアート・ムーブメントが没落の理由を年代順に詳しく述べている。皮肉なことに、この運動は解体され、最終的には理想的な価値観へ移行し、特異な視覚芸術物語の創造に向かってゆっくりと歩み始めた。グループは二つに分裂した。一方では、インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントが成長し続け、拡大していくことを願うメンバーもいた。その一方で、新しいメンバーを受け入れることに抵抗を感じる者もいた。メンバーの多くは、以前に反対していたような者になりつつあった。彼らは傲慢になり、新メンバーの作品に対して「良くない」「不適切だ」などと攻撃的なコメントをするようになっていく。新メンバーによって導入された新たな成長を認めようとしなかったのだ。それは、彼らがこの運動は単に自分たちだけのものではなく、その時代の従来の社会的価値観に共鳴するものでなければならないということを受け入れる準備ができていないかのようだった。

インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントの失敗は、インドネシアの視覚芸術の領域をさらに複雑で無知なものにしてしまった。最も明らかな影響は、社会問題を語る芸術と美的機能に焦点を当てた芸術の間のギャップが広がったことである。この問題は、インドネシア・ニュー・アート・ムーブメントが対立していた二つの極から派生したものである。しかしながら、ギャラリーのコレクションの一部である、そういった彼らの作品が、意識的にも無意識的に独自の派閥を生み出していた可能性もある。このように、ジム・スパンカットはインドネシア・ニューアート・ムーブメントの崩壊と当時の状況について説明を行っている。
 
この出来事がもたらした長期的な影響は、視覚芸術の領域で社会的基盤のアートが議論され続けていることである。これは、ニュー・アート・ムーブメントのメンバーの作品が、政治的・社会的側面を強く意識していたからでもある。つまり、彼らは政治の担い手として、また表現媒体としてのアートの機能を活性化していたのである。しかしながら、彼らは自分たちの作品を社会や地域と結びつける努力を見落としていた。レクラ(LEKR、民衆文化研究所)[4]もこの問題を強調していた。残念ながら、スハルト政権が終止符を打ったため、この闘いは長くは続かなかった。 

レクラ (Lekra)とは、「上から下へ降りる」あるいは「大衆に降りる」(Turun ke Bawah - Turba)と呼ばれる芸術手法を意味する。この方法では、アーティストもその時点で「最も低い」とされているものを直接的に感じ、経験することを強調している。レクラの芸術形態は様々で、特定の表現媒体に限定されるものではなかった。例えば、村から村へと移動するケトプラック(ketoprak)のショーなどである。ヘシリ氏(Hersri Setiawan)[5]の著書『Dunia Dikepung Jangan dan Harus』の中で語られている話を引用すると、人々は移動式ケトプラックのショーを見るときに「レクラを見物する/見る」という表現を使っていた。この動きは、アート作品が美術館やギャラリーの壁の中に閉じ込められていた当時の芸術文化状況への批判として生まれたものである。しかしながら、レクラの最期という現実は、当時のスハルト政権の残酷さを表していた。ここでも物語やアートの実践は、ギャラリーや美術館に戻らなければならず、結局、その後の混乱を経験することになってしまう。

レクラの時代からインドネシア・ニュー・アート・ムーブメントの時代までのコレクティヴィズムの精神は、アーティストの社会環境に対する感受性を鈍らせていた必然性という基準を、逆に打ち破ろうとする試みとして生まれた精神であった。確かにこの側面は、アートが慌ただしいアートマーケットの真っ只中を走り続け、生態系の破壊、暴力、社会的不正義の中で何者かになることが要求される今日でも当てはまる。
 
しかしながら、新秩序の時代を境に、少し違った傾向が発生した。1999年から2005年の間には、コレクティヴの急激な高まりがあった。この期間は、若者たちが自由の混乱を感じた時期であり、特にスハルトを大統領の座から転覆させることに成功したことを称賛した時期である。彼らはついに、どんな形でも自由に試みるチャンスを得たのだ。この騒動は、ジャカルタ、ジョグジャカルタ、マカッサルにコレクティヴが誕生する一助となった。この三つのコレクティヴは、当時の社会的慣習に対応したもので、特別な性質を持っている。

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[1] インドネシア新芸術運動(Gerakan Seni Rupa Baru)1987年のマニフェスト。
[2] インドネシア美術アカデミー(ASRI Arts Academy、 ASRI=Akademi Seni Rupa Äi0IndonesiaÄi0、1950年設立)は現国立芸術院ジョグジャカルタ校(Indonesian Institute of the Arts, Yogyakarta、 Institut Seni IndonesiaÄi0)の前身である。
[3]「インドネシア・ニュー・アート・ムーブメント展」
  https://www.mori.art.museum/contents/mamproject/mamresearch/003.html
[4] LekraまたはLembaga Rakyat Kebudayaan(人民文化協会)は、1950年に結成された人民組織で、インドネシア共産党の一部とみなされたため、1965年にスハルト大統領の手で廃止されなければならなかった。
[5] LekraのメンバーであるHersri Setiawanの「Dari Dunia Dikepung Jangan dan Harus」(2019: 249)という本の中のメモによると、「down」(下へ)とは人生で最も苦しんでいる人たちのことを指している。この手法は、1945年代世代の芸術家たちのボヘミアン的なライフスタイルが、従来の社会生活を見ることに抵抗があり、自らを縛っていたことを受けて策定された。そのため、このメソッドはそのようなライフスタイルを壊そうとするものだった。

参考文献
・Kerns Virginia 1997「Women and the Ancestors」United States of America イリノイ大学出版
・土屋賢二 2019「Demokrasi dan Kepemimpinan:Kebangkitan Gerakan Taman Siswa」Jakarta バライ・プスタカ
 ・Widuretno Diah 2017「Gesang di Lahan Gersang」Yogyakarta
 ・Berlant Lauren 2016「The Commons: Infrastructure for Troubling Times」University of Chicago SAGE 出版
 ・Sekolah Salah Didik 2019「Sekolah Salah Didik Uji Coba」Yogyakarta KUNCI 出版

インドネシアでのアート・コレクティヴの活動 -その2- へ

著者について

  • Gatari Surya Kusuma

ガタリ・スルヤ・クスマ(Gatari Surya Kusuma)
ガタリは、インドネシア・ジョグジャカルタを拠点に活動するアートリサーチャー、ライター、キュレーターである。2016年に Indonesian Institute of the Artの写真学科を卒業した後、彼女は自身のグループであるKUNCI Study Forum & Collective で多くのアクションリサーチを深めている。また、「Bakudapan Food Study Group」という食の研究集団での活動を通じて、食に関する芸術的な制作や民族誌的な研究を行っている。現在、エコロジー、批判的教育学、集団主義の分野で多くの活動を行っている。