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著者:パトリック・D・フローレス(Patrick D Flores)、カルロス・キホン・ジュニア(Carlos Quijon, Jr.) 翻訳:藪本 雄登
Ginoe, Kabit Sabit
All images courtesy of the artists and writers
フィリピンの現代アートの歴史は、美術史、美術制度、展覧会の開催、キュレーターの広範な活動等の現代性を繊細かつ緊急に伝える活発な芸術的実践によって構築されてきた。それは、刻々と変化する政治的環境や、フィリピン諸島の広大な生態系、そして民族性に語りかけ、介入していくために、広範囲に範囲に渡る表現行為によってなされてきたのだ。
1969年9月に開館したフィリピン文化センター(The Cultural Center of the Philippines、以下「CCP」)は、その歴史において、重要な機関である。CCPはフェルディナンド・マルコス大統領(President Ferdinand Marcos)の時代に、ファーストレディのイメルダ・マルコス(the First Lady Imelda Marcos)が建設資金を確保し、設立されて、彼女が初代議長を務めた。CCPの使命は、国民の文化的表現を促進し、「さまざまな分野におけるフィリピン特有の芸術に対する国民の関心と評価を高め、育成する」ことにある。また、この時期の他の文化機関は1973年に設立されたフィリピンデザインセンター(the Design Center of the Philippines 、以下「DCP」)、フィリピン美術館(the Museum of Philippine Art、 以下「MOPA」)、マニラメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Manila 、以下「MET」)などであった。MOPAとMETは、1976年に設立された。アーティストのアルトゥーロ・ルス(Arturo Luz)は、これらの施設を同時に監督し、彼の名を冠したギャラリーはMOPAを実質的に管理していた。
CCPは、近現代の国際的なアートの実践の場とみなされており、現代のコンセプチュアル・アートやパフォーマンス・アート等のアイデアを育てるのに一役を果たした。1970年1月から1985年に亡くなるまで、CCP内の様々なスペースのキュレーターを務めたレイムンド・アルバノ(Raymundo Albano)の活動は、フィリピンにおけるキュレーターの理論と実践の発展において重要な位置を占めている。任期中、彼は、発展するアートのアイデアを概念化していった。それは彼にとって、「迅速な実施のための政府プロジェクト(government projects for fast implementation.)」に触発された「力強いキュレトリアルな態度(powerful curatorial stance)」であった。アルバノの挑発は、アートの本質を再考するきっかけとなった。それは、アートの形態、文化的な系譜や鑑賞者との関係の再構築、アイデンティティへの欲求の喚起をもたらした。ジュンイー(Junyee)、ヘネラ・バンソン(Genera Banzon)、サンディアゴ・ボセ(Santiago Bose)などの作品を展示した、彼の提案である「Art of the Regions」(地域の芸術)はその一例である。また、それらの提案とは別に、アルバノはその年の代表的作品を紹介する「CCP Annual」を発足させ、1980年から1982年まで隔月で発行された美術雑誌『Philippine Art Supplement』や、ジョニー・マナハン(Johnny Manahan)と共同で出版した3冊の雑誌『Marks』の監修も行っている。
1981年、ジュンイーは、「ロスバニョスのサイトワークス(Los Baños Siteworks)」というプロジェクトを企画している。これは、3ヘクタールの "山と都市の中間地点 "で行われた展覧会であった。この場所では、典型的なギャラリーでの展示の慣例から離れた場所と感性の重要性を示し、その地域との関係を示している。「自然の素材を媒体とすることで、作品と周囲の環境との関係をさらに融合させ、一つの統合体とする」と述べている、もはやギャラリーの壁の中に閉じ込められていない現代アートの展示環境の変化をもたらした。ジュンイーは本展について、「自然の延長線上にあるように、作品は地面から生え、空中に浮かび、地域を囲み、枝からぶら下がり、会場内にランダムに配置される。」と述べている。
センター外では、マルコスの開発独裁の下で権威主義的な政治体制が強まったことを受けて、「社会的リアリズム(social realism)」が発展した。評論家のアリス・ギリェルモ(Alice Guillermo)は、この言葉の定義を「特定の主義、立場ではなく、社会の被搾取者や被抑圧者、そして彼らの変革への願望を支持する共通の社会政治的志向である」と表現している。彼女によると、社会的リアリズムとは、「ダイナミックな歴史観の中で社会的理想を追求することに根ざす、視覚芸術における社会的リアリズムは、政治に関心を持ったフィリピン人の意識から生まれたものである」としている。後者の指摘は、1896年のスペインに対するフィリピン革命と、あらゆる抑圧的な制度に対する継続的な闘争によって研磨されたものに由来している。ギリェルモは、フィリピンの社会的リアリズムが「同時代の状況や出来事から、現代的な題材を選択することを重視し」、そして「本質的には、対立構造の鋭い認識に基づいている」と主張している。リアリズムが単なる文体上の用語として解釈されるのに対し、社会的リアリズムは「フィリピン社会の真の状況を曝け出し、明らかにしようとする、共有された視点」である。画家のパポ・デ・アシス(Papo de Asis)、パブロ・バエンス・サントス(Pablo Baen Santos)、オルランド・カスティーヨ(Orlando Castillo)、ホセ・クアレスマ(Jose Cuaresma)、ニール・ドロリコン(Neil Doloricon)、エドガー・タルサン・フェルナンデス(Edgar Talusan Fernandez)、チャールズ・ファンク(Charles Funk)、レナート・ハブラン(Renato Habulan)、アルバート・ヒメネス(Albert Jimenez)、アル・マンリケ(Al Manrique)、ホセ・テンス・ルイス(Jose Tence Ruiz)、そして後にヴィン・トレド(Vin Toledo)が加わったアート・コレクティブ「カイサハン(Kaisahan)」(連帯、団結を意味する、1975、1976年)の作品は、この傾向を象徴するものになった。
Sungdu-an
このような環境の中で、奇才デイヴィッド・メッタラ(David Medalla)の活発な活動が、特異な形ではあるが、花開く。彼はホモ・ルーデンス(遊戯人)であり、挑発者であり、詩人であり、フィリピンをはじめとする近現代美術を代表する著名な人物であり、動く実践(kinetic)、インスタレーション、ソーシャリー・エンゲージド・アートなど、いわゆるカテゴリーに収まらない活動に邁進した。1969年のCCPの開館時には、彼が見たCCPの俗物主義的な展示に抗議する電撃的なデモを行った。開館式典で警官に捕まり、外に連れ出されたメッタラは、抗議に必要な許可証を持っているかと聞かれると、ほかでもないイメルダ・マルコス大統領夫人からの招待状を手渡し、大きな色紙に「ペテンを止めろ!打倒、俗物!(a bas la mystification! a bas la mystification!)」と手書きし、自分の作品を掲げる権利を主張したのであった。
1986年、フェルディナンド、イメルダ・マルコス夫妻の政権は、エデュサ革命(EDSA People Power uprising)の蜂起によって退陣させられた。この蜂起に伴いマルコス政権下によって定められてきた既定の制度設計の優先順位を変化させる新たな民主主義の推進力が生じた。国際的な巡回展の会場であったMETは、フィリピンの芸術に焦点を当てるようになったし、CCPは、1970年代には開催できなかった社会的リアリズムを追及するアーティスト達の作品を展示するようになり、そして、DCP は貿易産業省に吸収された。MOPAの運営については、マルコス後、文化施設が民主的であるためには何が必要なのかという問いを軸に、各団体が一連の会議で議論を重ねたのであった。結果、MOPAの敷地は、元々フィリピン政府の所有物ではなく、機関自体も運営を継続するための財政がないことがわかり、最終的には閉鎖されてしまった。
民主主義の胎動は、マルコス以前の独裁政治の数々の混迷の後、この時期の芸術活動に活気を与え、新しい芸術インフラを形成していった。民主化された活動の新たな感覚の一部として、アーティスト集団が形成された点がある。カシブラン(Kasibulan、新たな意識に伴う芸術における女性達)は、1987年にビジュアル・アーティストのイダ・ブガヨン(Ida Bugayong)、ジュリー・リッチ・デレナ(Julie Lluch Dalena)、イメルダ・カジープ・エダヤ(Imelda Cajipe Endaya)、ベレンダ・ファジャド(Brenda Fajardo)、アンナ・フェール(Anna Fer)によって設立された。それはフィリピン女性の役割に関する国家委員会(National Commission on the Role of Filipino Women、以下「CRFW」)が主催した「女性開発」に関する協議会がきっかけとなっている。組織の中心となったのは、「地域、国内、国際的な女性アーティストとのネットワーク」を作ることで、「新しいイメージやアイデンティティが生まれ、パワーとエンパワメントの感覚を与えることで変革を始めることができるフィリピン女性の集合意識」を表面化させるという目標にあった。この集合意識は、「女性の視覚的言語、感性、芸術的な卓越性」や「象徴、イメージ、価値観、女性の個人的および集団的な変容に対しての信念」に現れており、また「西欧モダニズムの避けられない影響に代わる取り組みとして、女性の伝統的な領域である部族、先住民、民俗の工芸品」にも関心を持っている。このような願望に加えて、このグループは「フィリピン女性の社会経済的、文化的成長を長い間妨げてきた女性問題を解決するために、女性グループを支援する」ことも目指していた。会員は、「女性の団結意識の目標のために働く意思を示す美術史家、教育者、批評家を含む、視覚、文学、パフォーマンスアーティストのすべての女性に開かれている」とした。毎月のフォーラムから展覧会、出版物に至るまで、カシブランはジェンダー問題と、意識がそれに向けられた場合のフェミニストのアクションの可能性を意識し、女性アーティストのコミュニティを育成した。
1990年代には、特にCCPのアウトリーチ・交流プログラムや、1992年の国家文化芸術委員会(the National Commission for Culture and the Arts、以下「NCCA」)の設立などにより、地域性をめぐる理論に注目が集めった。NCCAは、「フィリピンの芸術・文化の保存、発展、促進のための総合的な政策立案、調整、助成を行う機関」としての機能を果たした。1989年に始まったバギオ芸術祭(Baguio Arts Festival 、以下「BAF」)、1990年に設立されたビサヤ諸島視覚芸術展・会議(the Visayas Islands Visual Arts Exhibition and Conference、「VIVA ExCon」)、1996年から2009年まで開催された全国巡回展「Sungdu-an(統合)」など、CCPのアウトリーチ・交流プログラムとNCCAの任務は、マニラ以外の新提案やプロジェクトへの支援を実現していった。この3つのプラットフォームは、それぞれの地域のアーティストを招集し、展覧会や会議を通じて地域の公共圏を統合するのに役立った。バギオ・アーツ・ギルド(the Baguio Arts Guild)が始めたBAFは、マニラの北に位置するコルディリェーラ(Cordillera)地域芸術文化のための場を提供していった。また、ネグロス島(Negros Occidental)を拠点とする芸術家集団「ブラック・アーティスト・オブ・アジア(Black Artists of Asia)」のメンバーが主宰する「VIVA ExCon」は、ビサヤ(Visatas)地方の島々をつなぐ役割の強化を果たした。「Sungdu-an」は、地方に拠点を置くキュレーターを通じて、フィリピン諸島の状況を超え、フィリピンの芸術を考察する重要なステップとなった。「VIVA ExCon」と「Sungdu-an」は、フィリピンにおける芸術活動やキュレーションの技法として、旅をすることの可能性を探り、地域や群島という軸で「フィリピンの国家全体」という概念を構築することをに挑戦した。今日、アーティスト達のエネルギーは、彼ら自身の意志と市場や国家の支援によって、フィリピンの島々を越えて感じられるようになり、もはやマニラという中心に閉じ込められることはなく、国際的なアートの先駆者たちの信条から解放されているのだ。フィリピン人であるかどうか、という悩ましい問題は、世界的でありながら、根付いた地域性という、より建設的な概念に置き換わっている。多くの点で、この二項対立は誤った選択であり、フィリピンの経験において、その二項対立はもはや維持できないことが明らかになっているだ。
1990年代には、このような国内的な地域観に加えて、国際的な地域主義のイメージが、展覧会や風土学的な努力によって広まっていった。この点で重要なのは、1993年にブリスベンのクイーンズランド・アート・ギャラリーが主催したアジア・パシフィック・トリエンナーレ(the Asia Pacific Triennale 、APT)、1996年のシンガポール美術館(the Singapore Art Museum 、SAM)の設立、そして1979年に日本の福岡市美術館(Fukuoka Art Museum、FAM)が開始し、1999年に福岡アジア美術館(the Fukuoka Asian Art Museum 、FAAM)となった先駆的なコレクションと展示の取り組みが重要である。これら3つの機関の取り組みは、APTではアジア太平洋、SAMでは東南アジア、FAM/FAAMではアジアという多様な座標を展望し、地域形成と地域性についての力強い理解をもたらしたのである。
Jocson, Princess Parade
福岡市美術館は、アジアの美術作品を紹介する展覧会の先駆けとなった。1979年には「アジア美術展」を開催し、アジア美術に関して地域を超えて紹介する最初の展覧会の一つとなった。福岡アジア美術館が設立された後、「アジア美術展」は「福岡アジア美術トリエンナーレ」に変わり、1999年に第1回目が開催された。FAMは、「アジア現代作家シリーズ」と題して、ロベルト・フェレオ展(Roberto Feleo、フィリピン、1988年)、ホー・デュオ・リン展(He Duo Ling 中国、1988年)、タン・チンクアン展(Tan Chinkuan マレーシア、1990年)、タン・ダ・ウ展(Tang Daw Wu シンガポール、1991年)、ラシード・アライーン展(Rasheed Araeen パキスタン、1993年)、ドゥルヴァ・ミストリー展(Durva Mistry インド、1994年)、モコ展(Mokoh インドネシア、1995年)、キム・ヨンジン展(Kim Young-Jin 韓国、1995年)、ハン・ティ・ファム展(Han Thi Pham ベトナム、1997年)などのアーティストの作品を一人ずつ紹介する展覧会シリーズも開始した。また、「伝統、インスピレーションの源泉」展(アセアン文化センターとの共催、1990年)、「東南アジアのニューアート」展(1992年)、「東南アジアー近代美術の誕生」(1997年)など、東南アジアの美術品の展示にも重要な役割を果たした。
一方、APTは、クイーンズランド・アート・ギャラリー(the Queensland Art Gallery)とギャラリー・オブ・モダン・アート(Gallery of Modern Art)が発案し、1993年に設立された。APTでは、展覧会、映画プログラム、子供向けのアートプロジェクト、そして、アジア中のアーティストを集めてトークやワークショップを行うパブリックプログラムなどが行われた。APTの歩みの中で特別なのは、アジア、太平洋、オーストラリアの現代美術に焦点を当てていたことである。APTは新作の収蔵やコミッションによってプログラムを維持してきた。また、研究や出版にも力を入れており、オーストラリア・センター・オブ・アジア・パシフィック・アート(the Australian Centre of Asia Pacific Art 、ACAPA)を通じて、アジア太平洋地域のアーティストや美術館関係者のためのレジデンスプログラムやトレーニングプログラムを積極的に提供している。
そして、1996年にはSAMが登場し、東南アジアの現代美術の収集、注釈付け、展示を行った。SAMは、東南アジアの芸術に対する地域的な想像力を凝縮し、その歴史化と言説の形成に影響を与えた。さらに、シンガポールが地域の現代美術の重要な拠点としての地位を確立した。
そして、1996年にはSAMが登場し、東南アジアの現代美術の収集、解説、展示等を行った。SAMは、東南アジアの芸術に対する地域的な想像力を凝縮する機能を果たし、その歴史編纂と理論の形成に影響を与えた。さらに、シンガポールが地域の現代美術の重要な拠点としての地位を確立した。
1990年代には、フィリピンの公的機関によるプロジェクトが盛んに行われたが、1990年代後半から2000年代前半にかけては、独立系やアーティストが運営するスペースが急増し、その後、数年間に、横の繋がりによって、アーティストやキュレーター同士のスペース運営が生じていった。これらのスペースは、公的機関によるプログラムの規模や経済性に対して批判的でないにしても、それとは異なる形で芸術の世界に集い、参加する形態に鋭い光を当てていった。初期の例としては、1970年代にアーティストでCCPの初代キュレーターであるロベルト・チャベット(Roberto Chabet)が率いるアーティストグループによって設立された「Shop 6」や、1980年代にアーティストのアグネス・アレリャーノ(Agnes Arellano)と彼女のパートナーであるイギリス人作家のマイケル・アダムス(Michael Addams)が運営していた「The Pinaglabanan Art Galleries」などがある。これらのスペースは通常、私財を投じて運営されているか、民間財団の支援を受けて存在していた。顕著な例としては、アーティストで映像作家のヤソン・バナル(Yason Banal)が1998年にケソン(Quezon)市に設立した展示・パフォーマンススペース「Third Space」がある。同年、「Surrounded by Water」をアーティストのワイヤー・トゥアゾン(Wire Tuazon)がリサール州アンゴノに設立し、後にジョナサン・チン(Jonathan Ching)、マリアノ・チン(Mariano Ching)、レナ・コバンバン(Lena Cobangbang)、ルイ・コルデロ(Louie Cordero)、クリスティーナ・ダイ(Cristina Dy)、エドゥアルド・エンリケス(Eduardo Enriquez)、ジェラルディン・ハビエル(Geraldine Javier)、ケイエ・ミランダ(Keiye Miranda)、マイク・ムニョス(Mike Muñoz)、ヤスミン・シソン(Yasmin Sison)などのアーティストが参加する集団となった。1999年にはアーティストのリンゴ・ブノアン(Ringo Bunoan)、カティア・ゲレロ(Katya Guererro)、リザ・マナロ(Riza Manalo)がマニラに設立した「big sky mind」などがある。最も長く続いている前衛的なアートスペースのひとつ、グリーン・パパイヤ・アート・プロジェクト(Green Papaya Art Projects)は、2000年に誕生した。アーティストのノルベルト・ロルダン(Norberto Roldan、ブラック・アーティスト・イン・アジアの創設メンバーの一人でもある)とダンサー・振付師のドナ・ミランダ(Donna Miranda)が立ち上げた「グリーン・パパイヤ」は、「さまざまな分野の現代アートの制作、普及、研究、発表に対する戦術的なアプローチを模索する行動や提案を支援し、組織する独立したプロジェクト」である。それは、国内外のアーティストやアートコミュニティの間で、知的交流、情報や資金の共有、芸術的・実践的なコラボレーションを行うためのプラットフォームを提供し続けている。
Tong
Tong
これらの歴史は、2010年代以降のフィリピンの現代アートの軌跡を形成している。フィリピンの公的機関の中で、またそれを超えて独立系アートスペースで展覧会に関する理論や実践が発展していく中で、キュレーターの働きは、こうした歴史的発展が参照していった複雑なネットワークと経済的な発展を導くために必要となる知性を与えていったと考えている。キュレーターの役割は、公的機関や商業的な論理に対抗して、あるいは、現代の芸術制作や歴史の中での考えを深める内省から生じるものである。
この発展の中で、決定的なのは、国際交流基金マニラ日本文化センター(the Japan Foundation, Manila)とフィリピン大学ホルヘ・B・バルガス博物館およびフィリピーナ研究センター(the University of the Philippine Jorge B. Vargas Museum and Filipiniana Research Center)が2009年に開始したキュレーター教育・研修のためのプラットフォームで、「キュレーター開発ワークショップ(the Curatorial Development Workshops 、CDW)」と呼ばれるものであった。CDWは、"若手キュレーターとその仲間達、そして、この分野で活躍する実務家が交流する場"を提供した。公募により選ばれた新鋭キュレーターが、ワークショップ形式で展覧会の企画を発表し、プロのキュレーターが彼らの実践やプロジェクトについて共有する。第1回目のワークショップでは、参加者の一人がJapan-East Asia Network of Exchange for Students and Youth(JENESYS)のプログラムの下、日本の文化機関でインターン・キュレーターとして働く機会を得て、バルガス美術館で提案した展覧会を実現するための場所と指導が与えられた。2017年には、バルガス美術館で「Almost There」展が開催されたほか、選ばれたワークショップ参加者が東南アジアのさまざまな会場で企画した小規模な展覧会も開催されている。
2010年代には、展覧会の開催やアートの公開について、斬新な発想や機会の提供の仕方が登場した。2013年には「アートフェア・フィリピン(the Art Fair Philippines)」が開始した。これは、フィリピンおよび東南アジアにおける近現代のビジュアルアートを展示・販売する大規模な機会となった。また、地元のビジュアルアートの鑑賞者を拡大し、より最近の展開では、理解しやすいアートの公共性という問題を前進させるのに一役買った。ロナルド・ヴェンチューラ(Ronald Ventura)のキャリアは、芸術の担い手は市場と関わってはいるが、必ずしもその要求に圧倒されることはないということを象徴している。ヴェンチューラ(Ventura)の作品は、シリーズ性を重視した感性とともに、より伝統的な技術を駆使し続けている。ヴェンチューラは、2011年に開催されたサザビーズのオークションで、大きなキャンバスに描いた「Grayground」が800万香港ドル以上で落札され、東南アジアで最も高く売れたアーティストの記録を保持し続けている。2021年5月には、クリスティーズの20・21世紀美術のイブニングセールでは、「Party Animal」が総定額の16倍にあたる1900万香港ドルで落札されている。このように、フィリピンのアーティスト達は、自分の周りの地域や支援団体と協力しながら、レジデンスプログラムやメンターシッププログラムを備えた独自のスペースを構築している。また、一次、二次市場は、数多くのフェアやオークションハウス、ギャラリーで賑わっている。このような状況の中で、フィリピンの現代アートの質は、リアリズムの絵画やコンセプチュアリズムのインスタレーション、ポストコロニアルのインターメディアや版画、写真、動画、サウンド、アクション、アーカイブ等に関連したリサーチベースのプロジェクトであろうと、様々な分野で活発に動いている。
2015年は、ヴェネツィア・アート・ビエンナーレにフィリピンが50年以上ぶりに参加した年であった。2015年は、パトリック・D・フローレス(Patrick D. Flores)がキュレーションした「Tie A String Around the World」展が開催さた。このパビリオンでは、ナショナルアーティストのマヌエル・コンデ(Manuel Conde)とカルロス・フランシスコ(Carlos Francisco)、アーティストのホセ・テンス・ルイス(Jose Tence Ruiz)とマニー・モンテリバノ(Manny Montelibano)の作品を展示し、征服と世界創造の技術と、現代の南シナ海における領土問題におけるその共鳴性を探った。翌年には、ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展にフィリピンが参加し、「Muhon:Traces of an Adolescent City」が開催された。この展覧会では、レアンドロ・ロクシン・ジュニア(Leandro Locsin, Jr.)、スダルシャン・カドカ(Sudarshan Khadka)、JP・デラクルス(JP dela Cruz)のキュレーションにより、マニラの建築と都市の歴史が紹介されている。
Rasmussen
Rasmussen
このような発展と並行して、芸術の制作と受容の現代的な背景と、最も広い意味での芸術的環境においてのコラボレーション、介入や参加の分野における力強い可能性を媒介として、説得力のある実践の傾向が増えていった。ナタリー・ダグマン(Nathalie Dagmang)の活動は、このような考察に踏み込んだものである。人類学の学生であり、ビジュアル・アーティストでもある彼女は、生態系の災害が起こりやすい地域社会から移民労働者の経験に至るまで、人間の経験に関する現代的な状況と、社会的関与に関する会話を促す方法として利用される芸術的プロセスとの接点に関心を持ち続けている。彼女の作品「Dito sa May Ilog ng Tumana」(2016年)では、マリキナ川(the Marikina river)沿いに位置するバランガイ・トゥマナ(Baranggay Tumana)の都市コミュニティを取り上げている。彼女の民族史的プロジェクトでは、その土地と地域社会の関係がどのように相互に変化するかを調査している。住宅地は、川の地形を絶えず変化させ、川はありふれた日常的な風景として、同時に熱帯性台風による浸水の危険性が常にある場所として、そこに住む人達の日常生活と切り離せないものになっている。また、ダグマンは、アジア人権委員会の助成を受けて英国で行われたプログラム「Curating Development」にも参加している。キュレーターや人類学者と協力して、イギリスや香港に住むフィリピン人移民労働者とのワークショップやコミュニティベースのアート活動を開始し、フィリピンの想像力に対する移民労働者の貢献をテーマにした展覧会も企画している。
積極行動主義とパフォーマンスの間の適切な関係は、ボイェット・デ・メサ(Boyet de Mesa)の活動の中で具現化している。彼女はまた、2015年に始まったパフォーマンス・フェスティバルを通じ、文化交流、連帯、平和を促進するアーティスト主催のプロジェクトである「Solidarity In Performance Art Festival、「SIPAF)」を毎年開催している。アーティストのエイサ・ジョクソン(Eisa Jocson)の活動は、フランチェスカ・カサウエイ(Franchesca Casauay)、バニー・カダグ(Bunny Cadag)、キャス・ゴー(Cath Go)、テレサ・バロゾ(Teresa Barrozo)が参加した作品『Princess Studies』(2017年~)や『The Filipino Superwoman Band』(2019年)など、女性化され、風変わりな移民労働に注目した作品において、パフォーマンスにおける介入の可能性を思索している。この行為の作用は同様に、アーティストであり建築家でもあるイソラ・トン(Isola Tong)の実践を鼓舞しており、彼の作品はトランスジェンダーの政治と生態系の枠組みの中で、都市空間と開発、野生生物に対する概念に関する問いかけを行い、最後に、パフォーマンスを通して、離散する経験に対する感傷を、また、それに対する親密さと期待を否定することなく、表現している。ロンドンを拠点とし、Batubalani Art Projectsの共同ディレクターを務めるノエル・デ・レオン(Noel de Leon)の活動では、物質がどのようにして生き残り、歴史的な紛争や人や物両方循環の痕跡を示すかに関心を寄せている。一方、コペンハーゲンを拠点とするLilibeth Cuenca Rasmussenの活動は、「アイデンティティ」や「文化」の粘り強い要求と、それらの位置や変位に抗うため、滑稽で批判的な方法を提案するパフォーマンスを行っている。
参加することで得られる選択肢や、より対等な実践の論理への関心は、アーティストのマーク・サルヴァトス(Mark Salvatus)とキュレーターの平野真由美が2016年に設立したモバイルリサーチ&アーティスティックプロジェクト「Load na Dito」において、例外的に明確化されている。このプロジェクトでは、アートを生み出し、発表し、キュレーションするという集団的で相互に作用し合う行為に潜む、批評的で創造的な可能性を強調している。2019年、Load na Ditoは、フィリピン諸島の実践者が参加する多様でマルチサイトな展覧会「Kabit at Sabit」を提案した。フィリピン語で「つなぐ」「設置する」を意味する言葉から、サルバトゥスの故郷であるケソン州ルクバンのパヒヤス祭(the Pahiyas Festiva)から着想を得て、このキュレーション・プロジェクトでは、実践者に展示技術としてのインスタレーションを研究する芸術プロジェクトの作成を呼びかけた。それぞれの実践者は、建物の正面部分を選ぶように言われ、そこにオブジェを取り付けたり設置したりすることで、その場所を、アートが偶発的でもあり、意図的にも、一般の人々と出会う展示空間へと変えていった。
フィリピンの現代アートは、このような慣習や制度的な歴史の変遷や軌跡の中で、持続的でありながら、現在の事象を鋭く見極める力を示し続けている。それは、アーティスト達の活発な知性を構築し続け、彼らの直感を継続的に拡大していくものである。
Abuga-a, Kabit Sabit
Quinto, Kabit Sabit
パトリック・D・フローレス(Patrick D Flores)は、フィリピン大学芸術学部(Art Studies at the Department of Art Studies at the University of the Philippines)の教授であり、マニラのバルガス美術館のチーフ・キュレーターである。フィリピン現代美術ネットワーク(the Philippine Contemporary Art Network)のディレクターでもある。2001年から2003年に開催された「Under Construction: New Dimensions of Asian Art」や2008年の光州ビエンナーレ(Position Papers)のキュレーターを務めた。1999年にはワシントンDCのナショナル・ギャラリーの客員研究員を務めた。主な著書に「Painting History:Revisions in Philippine Colonial Art』(1999年)、『Past Peripheral:Curation in Southeast Asia』(2008年)、『Art After War: 1948-1969』(2015年)、『Raymundo Albano:Texts』(2017年)がある。2014年にはロサンゼルスのゲッティ・リサーチ・インスティテュート(the Getty Research Institute)の招聘教授に就任している。シンガポール・ビエンナーレ2019のアーティスティック・ディレクターを務め、2022年のヴェネツィア・ビエンナーレでは台湾館のキュレーターを務めている。
Patrick D Flores
カルロス・キホン・ジュニア(Carlos Quijon, Jr)は、フィリピン・マニラを拠点に活動する批評家・キュレーターである。ゲッティ財団の「Connecting Art Histories」プロジェクトが招集した研究プラットフォーム「Modern Art Histories in and across Africa, South and Southeast Asia (MAHASSA)」のメンバーでもある。「Artforum」や「Frieze」に展覧会のレビューや論考「Writing Presently」(Philippine Contemporary Art Network, 2019)がある。「From a History of Exhibitions Towards a Future of Exhibition-Making」(Sternberg Press, 2019)という書籍を出版している。MoMA's post(米国)、Queer Southeast Asia、ArtReview Asia(シンガポール)、Art Monthly(英国)、Asia Art Archive's Ideas(香港)、Trans Asia Photography Review(米国)などに掲載されている。2019年に香港で「Courses of Action」をキュレーションし、2020年にソウルで「Minor Infelicities」を共同キュレーションし、2021年にはシンガポールで「In Our Best Interests: Afro-Southeast Asia Affinities during a Cold War」を共同開催している。
Carlos Quijon, Jr.