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「沖縄へも行ったことがあるよ。僕は米空軍に21年もいたからね」。ヤンゴンのギャラリーで開いた個展の場で、オリバー・コレー氏はぼさぼさの髪の毛の間からやさしい視線を送りながらこう語った。美術を学ぶために海を渡った青年画家は、移民として米国で暮らし、30年の歳月を経てヤンゴンに戻ったのだ。
現在66歳のコレー氏が絵画を学んだのは、ネウィン大統領が率いるビルマ連邦社会主義共和国の時代の1970年代だ。ビルマ式社会主義によって独自の道を歩もうとしたネウィン政権は海外資本を排斥し、企業の国有化を進めた。その結果国民生活はどんどん困窮していった。「企業の国有化でみんな貧乏になってしまった。キャンバスも手に入らず、布を調達して自分たちで作ったものさ」とコレー氏は振り返る。
ヤンゴンの国立美術学校で絵画を学んだが、「学んだといってもとても初歩のもの」という。当時は検閲も厳しく、この時代に投獄された芸術家も少なくない。時代に息苦しさに耐えられなくなり、もっと自由なアートを学びたいと彼は1985年アメリカに渡り、サンフランシスコの美術学校の門を叩いたのだ。
コレー氏は絵を学ぶため米国に渡った
それまで写実的な絵画を描いていたコレー氏にとって、アメリカで見たアートはいろいろな意味で自由だった。彼は自分を束縛するものから抜け出し、自分だけの表現手法を編み出そうとした。アメリカに渡って数年後、様々な色をキャンバスの上でコラージュし、自然が生み出す表現に任せる技法を編み出した。そして彼はリアリズムを捨てた。
「アートゾーン」で開催されたコレー氏の個展
彼は自分の画法について多くは語らないが、筆を使うことはなく、独自の道具を自作して描いているという。ヤンゴンのギャラリー「アートゾーン」で11月に開催された個展では、大きく分けて二通りの技法があった。ひとつは、キャンバスに様々な色の油絵の具をミックスしてぶちまけたような一連の作品だ。「乱気流」と名付けられた作品では、黒い空間の中で、赤やオレンジなど多くの色が渦巻いている。同じ技法でも作品によって印象が異なり、自然が織りなす曲線が、時に瞬く閃光のように、時に虚空に浮かぶ魂のように見え、不思議な空間を形作っている。
「乱気流」、76cm x 92cm
もうひとつの画法は、上記の技術に加えて、キャンバスに布やひもを配置するものだ。赤や青などで統一した4枚組の作品のほか、多くの色を取り混ぜた中に布やひもが際立つように浮かぶ立体的な表現の作品もある。布は大雑把に切り取られて重ね合わされているかと思えば、細く切り刻まれるものもある。素材にもこだわりがあり、アメリカでないと手に入らないものも使用しているという。
布やひもをキャンバスに配置するコレー氏の技法は特徴的だ
移民としてアメリカで生きるために必要だったのだろう、コレー氏は2011年まで21年の間、アメリカ空軍に籍を置いた。そしてこの国に帰化した。その中でも、自分の本分は絵を描くことだという思いは変わらず、創作活動を続け、ニューヨークやロサンゼルスでも展示会を開いている。
92cm x 122cmの特大の作品は赤・青・オレンジ・黄の4枚組
キャンバスの上の素材が生み出す立体的な作品は迫力がある
二つの国で苦労を重ねたコレー氏は、米国を一方的に賛美するようなことはしない。米国は自由ではあったが、商業主義という壁がアーティストに立ちはだかる。ギャラリーや業者は売り上げの多くを吸い上げ、作家にはわずかな金しか残らず、苦しい生活を強いられる。
コレー氏は2016年、病床に就いた母の介護のためにヤンゴンに戻った。創作活動の傍ら、子どもたちに英語を教えるボランティア活動にも従事している。彼は現在のミャンマー美術界を「ギャラリーも増え、アートが流行になってきている」と評価する。その一方で、まだ未熟なマーケットであるとも指摘する。このため、コレー氏は若いミャンマー人でも手軽に購入できるよう、小さいサイズの作品も作っている。
コレー氏は退役軍人とはとても思えない柔らかな口調で、笑顔を浮かべ芸術への思いを語り続ける。「自分は一生芸術家だ。情熱は衰えない」。2つの国で厳しい世界を生き抜いたからこそ、変わりつつある現在のミャンマーの美術界に希望を感じているのだろう。
ミャンマーと米国で活動したオリバー・コレー氏