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創造力が道を切り開く 画家で編集者で歴史家で音楽家  パンソーダンギャラリー創業者のアウンソーミン

Myanmar

 「パンソーダン通りは、世界への玄関口なのだ」。画家で実業家でもあるアウンソーミンの言葉の通り、ヤンゴンのダウンタウンを南北に貫くパンソーダン通りは、英国統治時代から、文化の中心地であった。現在でもコロニアル様式の巨大な建築物が軒を連ね、周辺には書店が多いことでもわかる通り、東南アジア随一の都市とされたラングーン(現ヤンゴン)を統治する官吏ら知識人がここで文化談議に花を咲かせたのだ。その「パンソーダン」の名を冠した画廊を立ち上げたのが、アウンソーミンだ。

  • パンソーダンギャラリー創業者のアウンソーミン

漫画まねてイラストを描く子ども時代

 アウンソーミンは1970年にマンダレー近くの、伝統音楽で有名なチャウパダンで生まれた。子どものころに夢中になったのが漫画だった。大好きなキャラクターをまねて、ひたすらイラストを描いていった。正式に絵画の教育を受けていないアウンソーミンにとって、漫画こそが絵の師匠だった。漫画に限らず読書が好きだったアウンソーミンは、本を買う金がなかった学生のころ、本のとじ込みの仕事を始めた。広告を出すと街中から本が集まり、彼はタダで本を読みながら、お金を稼ぐこともできたという。

 青年時代は、ミャンマーにとって激動の時代だった。1988年には、民主化運動では、多くの若者が新しい国をつくろうと民主化運動に身を投じ、そして軍事政権の弾圧で夢はついえた。彼はこの点多くを語らないが、彼も闘争に参加し結果無事ではすまず、家族は散り散りになってしまった。

 当時は、学校での専攻や職業は国家から割り当てられるものだった。好き嫌いにかかわらず、彼は技術学校を卒業したのちに、エンジニアの道に進むことになった。しかし、その職には興味が持てず、本への情熱が諦めきれず1993年に出版社を立ち上げ、成功を収めることになる。

  • 自分の作品「踊り子」(中央上)を背にしたアウンソーミン

出版業界でイノベーション

 出版を手掛けたアウンソーミンが目指したのは、本の出版と流通の構造改革だった。まず、ミャンマーでは導入されていなかったDTP(デスクトップパブリッシング)の技術を採用し、業務を効率化した。「そのころ、DTPができるパソコンはヤンゴンに2台しかなかった」と振り返る。また、これまで貸本屋に依存していた本の流通を、買ってもらえる価値のある書籍を目指して編集するようにした。読者の好みに合わせ、奥が深い本格的な小説など、これまであまり見られなかった分野にも挑戦した。また、貸本屋が求める決まったページ数や大きさにとらわれず、それぞれの内容に合わせたスタイルの書籍を作っていった。

 しかし、彼がいち早く導入したDTPがミャンマーで主流になってくると、このことにより違った問題が生じてきた。小説や雑誌の挿絵などを描いていた画家やイラストレーターがコンピューターに仕事を奪われ、職を失う結果となったのだ。彼らは優れたアーティストたちだったが、時代が移り変わる中で、新しいアーティストのあり方が必要となっていた。アウンソーミンが特に必要だと感じたのは、アートを一般市民の身近に感じてもらう場だった。そして2008年、パンソーダンギャラリーを立ち上げたのだ。

「一度見てくれ」ですっかり魅了

 周囲の友人や画廊関係者はアウンソーミンに「成功するわけがない」と、忠告した。しかし、勝算はあった。「ミャンマー人には、アートを見る場がなかったのです」とアウンソーミンは振り返る。エアコンを効かせるために締め切っていた画廊のイメージを一新し、開放感のあるオープンなスペースとして、誰でも気軽に立ち寄れるようにした。「金持ちでも貧乏でも楽しめるように」(アウンソーミン)、多くの異なる価格帯や作風の作品を集めた。

  • 気軽に立ち寄れることを目指したパンソーダンギャラリー

 ギャラリーを立ち上げて間もないころ、アウンソーミンは知人で億万長者の俳優に偶然出会った。画廊を始めたと告げると、その知人は「アートには興味がない」とそっけなかった。アウンソーミンは「うちの絵を見てから判断してくれ」と半ば強引に店に連れて行った。すると知人は、驚いたようにじっと店内の作品を見つめ、その日のうちに3枚の絵を購入した。そして彼は、パンソーダンギャラリーの大口顧客となった。ギャラリーはこうして人気を呼び、開始1年目で1000枚もの絵画が売れたという。

仏教に自省を迫る赤と黒

 「本を書きたくて出版社を作り、絵を描きたくてギャラリーを作ったのだが、人の作品の仕事ばかりしている」とおどけるアウンソーミンだが、画家や造形作家としても多くの作品を手掛けている。

 特徴的なのは、2014~15年に制作された「仏教の危機」と題する一連のアクリル画だ。赤と黒でおどろおどろしく描かれた作品が多く、人の手をかたどったものや、箱のような場所にうずくまる男などが描かれる。折しも2012年には、ラカイン州でイスラム系住民ロヒンギャと仏教徒の衝突が起き、ロヒンギャを中心として政府発表でも2000人近い死者を出した事件が発生していた。アウンソーミンが発表した一連の作品には、仏教の精神はもっと寛大であったはずだというメッセージが込めれられているという。

  • "Breaking First Thread of 3; Blank and Cell", 2014, Aung Soe Min, Acylic on canvas, 36” x 48”

 彼にはまた、音楽家の肩書もある。伝統音楽を現代のポップスと組み合わせ、ビートを効かせたアップテンポな楽曲に仕立てた。作詞と作曲、そしてイベントの企画を手掛けている。

 現在進めているのは「オープンヒストリー」という一連の展示会だ。「政府は歴史を上書きしようとする」として、写真や書物、アートなど歴史的記録の展示会を地方都市で開くものだ。多くの客観的な資料を提供することで、歴史を多角的に捉えなおそうとする取り組みだ。

  • アウンソーミンは歴史的資料を収集している

 芸術家、経営者、編集者、詩人、言語学者、ジャーナリスト、キュレーター、歴史家、プロデューサー…。多くの横顔を持つアウンソーミンに、「あなたは何者なのか」と聞いてみた。「うーん」とうなった後で、彼は「少なくともビジネスマンではない」と答えた。彼が常に重視するのは「創造性」だという。思い返せば、彼の作品もビジネスも社会活動も、いずれも非常にクリエイティブだ。そう考えて、ある結論にたどり着いた。彼の生き方そのものがアートなのだと。

ヤンゴン在住ジャーナリスト 北角裕樹

文責: Yuki Kitazumi