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タカモリ ノブオ(Takamori Nobuo)/ 訳:藪本 雄登
HSU Chia Wei, 2015, Ruins of Intelligence Bureau, video, 13'30", ©Hsu Chia Wei
台湾における現代アートを論じる際に、最初に直面する困難は「台湾」という言葉をどう定義するかという問題であろう。台湾現代アートの複雑かつ多層であり、多様な表現は、ダイナミックでオープンな社会を持ちながらも、疑義のある未承認の国家である台湾そのものに類似しているのではないだろうか。しかしながら、それと同時に、台湾発の現代アートの実践における最も魅力的な要素でもあったりする。
台湾の近代、現代美術史は、台湾の政治的・社会的背景と深く関わっている。1895年から1945年までの日本の植民地支配下では、官展(日本統治時代において、台湾美術展覧会や台湾総督府美術展覧会があった)が確立され、西洋の近代美術や日本画が台湾に導入された。第二次世界大戦において、日本が敗戦した後は、中国国民党(以下、「国民党」)が台湾を支配していた。しかし、1949年の中国内戦で国民党が敗北すると、国民党は数百万人の支持者を連れて台湾に撤退した。
1949年以降、国民党は、自分たちが依然として中国全体を代表する唯一の合法的な中国政府であることを再確認し、国連における中国の席を享受した。現在の台湾の正式名称が中華民国であるのは、このためである。1949年以降、国民党は1987年まで長期独裁的な戒厳令を敷いていた。この時代には、中国ルネッサンス運動の要請や、アメリカとの政治的協力関係の中で、現代中国の水墨画や、中国の概念を現代化した抽象芸術がアートシーンで奨励されてきた。
民主化以前の台湾の芸術は、アジア太平洋のもの、日本のもの、中国のものなど、複数の遺産に恵まれていた。ただ、独裁的な国民党政権は、当時、自由で過激な表現に対して検閲制度を実施していた。台湾人であることを自認することは、この時代において、刑務所にいるように、最も重大なタブーのひとつであった。台湾の現代アートの黎明期は、国民党/中華民国の対外関係の黄昏期によってもたらされた。
JAO Chia En,《REM Sleep》, 3チャンネル・ビデオ・インスタレーション, ©Jao Chia En
1971年の国連総会(United Nations General Assembly)では、中国の国連加盟国の席を中華民国から中華人民共和国に変更する決議がなされた。中華民国の日本との外交関係は1972年に、アメリカとの外交関係は1979年に終了した。1980年代末には、世界のほとんどの国が台湾を主権国家として公式には認めない状態となった。しかしながら、外交面での一連の危機により、政府は経済・社会インフラへの投資を余儀なくされた。1980年代は、経済ブームと民主化運動の時代でもある。
現代アートの概念や枠組みは、グローバル化に伴い、1980年代後半から1990年代にかけて、台湾に大きく導入された。パフォーマンス・アーティストが社会的なヒエラルキーを煽る存在であったり、画家が検閲された政治雑誌の挿絵を担当していたりと、異なる分野間のカテゴリーや境界線がまだ曖昧な時期であった。1990年代初頭、現代アートはサブカルチャー・シーンの一部であったと大胆にもいうことができる。
現代アートの専門美術館は、1983年に開館した台北市立美術館(Taipei Fine Arts Museum、以下「TFAM」)が最初の現代美術館である。しかし、戒厳令が敷かれた時代には、美術館での検閲がアートシーンの不満を生み出していた。そこで、いくつかの独立した団体が、統治体制外でアートイベントを開催するようになった。例えば、1986年に設立された最も初期の現代アーティスト集団の一つであるリビング・クレイ(LivingClay,息壤)は、前衛的な展覧会やパフォーマンス・アートを路上で、違法に開催していた。
1992年、国民党政府は「政治犯」を処罰する法律をようやく廃止するに至った。検閲終了後の1996年は、台湾史上初の総統直接選挙の年となった。2000年の総統選挙で、国民党は初めて中央政府に対する支配力を失った。1990年代後半になると、地方自治体や公的機関が現代アートのイベントを後援または主催するようになった。この時期は、台湾の現代アートの過渡期であり、アートシーンが前衛的な実践から公式なステージへと移行した時期であるともいえる。
アーティストのLIN Shu KaiとBUI Cong Khanhによる「South Country, South of Country – Vietnamese & Taiwanese Artists Exchange Project, 2012」での共演, ©Outsiders Factory
1995 年に開催された「台北ブロークンライフ・フェスティバル (The Taipei Broken Life Festival 1995)」は、地元の台北県政府が主催した最初のサブカルチャー・フェスティバルである。1996年、TFAMは初の大規模な現代美術展である「台北ビエンナーレ1996-アイデンティティの探求 (The Quest for Identity)」を開催した。1996年の台北ビエンナーレは、1980年代以降の台湾の現代アートの初期段階の成果を示すものであった。また、このビエンナーレのタイトルは、台湾の文化的・政治的な立場を再定義することの難しさを表している。TFAMは台北ビエンナーレを国際的なものにすることを決意し、1998年の台北ビエンナーレを開催した。1998年の「台北ビエンナーレ:欲望場域(Site of Desire)」では、南条史生氏をチーフ・キュレーターに起用し、参加アーティストは東アジアの国々から広く選ばれた。2000年以降の台北ビエンナーレは、「アジアのビエンナーレ」という構造を否定し、より幅広い国際的なビエンナーレを目指しはじめた。
一方、台湾は1995年にTFAMが主催したヴェネチア・ビエンナーレにナショナル・パビリオンを開設した。しかし、2003年以降、ナショナル・パビリオンとしての台湾の正式な地位は取り消されている。「認められていない」台湾のナショナル・パビリオンは、常に台湾の現代アートを促進する重要な役割を果たしていた。チェン・ジェレン(CHEN Chieh Jen、陳界仁)、ウー・ティエン・チャン(WU Tien Chang、吳天章)、チェン・シュウ・リー(CHENG Shu Lea、鄭淑麗)など、台湾の先駆的なアーティストたちが活躍している。ユェン・グァンミン (YUAN Goang Ming、袁廣鳴)、リー・ミンウェイ(Lee Mingwei、李明維)、ヤオ・レイヅォン(YAO Jui Chung、姚瑞中) などは、1990年代から2000年代の英雄的存在である。
OCACのバンコクでのリロケーションプロジェクト(re-location project、2012、©OCAC
台湾の2000年代の現代アートシーンは、国際的なネットワークのインフラを重視した1990年代後半の延長線上にある。長期にわたる戒厳令と政治的孤立の直接的な帰結として、国際的なアートシーンから孤立しているという不安感が、ビエンナーレや台湾パビリオンへの注目を広く集めたのである。2001年に台北当代芸術館 (Museum of Contemporary Art Taipei)が開館した後、2000年代にはいくつかの現代アートのコンペティションに資金提供された。2000年代は、現代アートの正常化と促進の時期であったと結論づけることができる。公的機関と観客の両方が、新しい形の藝術表現を受け入れ始めたのである。
しかしながら、新たに投資されたインフラは、孤立への不安を軽減するものではなかった。体制主導の進歩によって、2000年代の台湾の現代アートは、最初の高級化の波に直面した。市場経済とその国民的な狂乱は、現代アートを1980年代と1990年代の無政府主義的な特徴に背くように仕向けた。その一方で、台湾の現代アートが国際的なアートシーンの門を叩き、国際的な観客を獲得するには、まだ大きなギャップが存在していた。こうした過渡期の間に、台湾の社会も穏やかに次のステージへと移行していった。
1990年代後半から、何千人もの東南アジア系移民が、出稼ぎ労働者として台湾に定住したり、国際結婚によって台湾の市民権を得たりするようになった。今日では、台湾の子供やティーンエイジャーの何割かは、少なくとも両親のどちらかが東南アジアにルーツを持つ人々である。何人かの台湾人アーティストはすでにこの社会的変化に気づき、作品を通してこの社会現象を記録し始めた。
例えば、アーティストのホウ・ルル・シュウズ (Lulu Shur Tzy HO、侯淑姿)は、2000年代半ばから、台湾人男性とベトナム人女性の国際結婚を記録し始めた。2011年、アーティストのソー・ヨー・ヘン(SO Yo Hen、蘇育賢)は、インドネシアの移民漁師たちが結成した「インディー・バンド」を記録した。漁船でのパフォーマンスを表現した一連のビデオは、同年のヴェネチア・ビエンナーレの台湾パビリオンにも展示された。ラオ・ジアエン(JAO Chia En、饒加恩)の3チャンネルビデオ作品「REM Sleep」(2011年)は、台湾の移民労働者数人にインタビューし、彼らの悪夢を語ってもらったものである。彼ら自身の悪夢を語ることで、鑑賞者は出稼ぎ労働者の恐怖、疲労、混乱に触れることができる。夢は、現実よりもリアルなものを呼び起こしたのである。
OCAC,「THAITAI Fever」, バンコクのBACCにて, 2012, ©OCAC
2012年は、独立した団体やスペースが、東南アジアのアートコミュニティとの芸術交流に取り組み始めた重要な年でもある。私も参加しているキュレーター・コレクティブ「アウトサイダーズ・ファクトリー(Outsiders Factory)」は、ベトナムのスペース、ゼロ・ステーション(Space Zero Station)と共同で「South Country, South of Country - Vietnamese & Taiwanese Artists Exchange Project」を開催した。このプロジェクトでは、ベトナム、台湾両国のアーティストを招待し、1ヶ月間のコラボレーションを行った。プロジェクトは台南とホーチミン市で同時に行われた。それぞれのコラボレーションには、いくつかの課題がある。例えば、台湾のアーティストリン・シュー・カイ(LIN Shu Kai、林書楷)とベトナムのアーティストブイ・コン・カン(BUI Cong Khanh)のプロジェクトは、コミュニケーションのための共通言語を持たないため、ドローイングで互いにコミュニケーションをとるというユニークなものであった。
オープン・コンテンポラリー・アート・センター(Open Contemporary Art Center、以下、「OCAC」)は、当時新たなレンタルスペースを求めていたこともあり、同年にバンコクに移転した。物価の高い台北で苦戦する代わりに、OCACは半年間、バンコクのチャイナタウンに移転することにしたのである。バンコクでの彼らのスペースは、単にプロジェクトのショールームではなく、OCACのメンバーが生活し、仕事をするための拠点でもあった。この基盤をもとに、OCACは2012年から「THAITAI Fever」プロジェクトを展開した。数名の台湾人アーティストがタイに紹介され、BACC(Bangkok Art and Culture Center)でも1つの展覧会が開催された。そのお返しとして、2014年には台北で大規模な展覧会を開催した。
チャン・エン・マン(張恩滿)は、台湾の先住民のアーティストで、OCACのバンコクでのプロジェクトにも参加している。彼女のビデオ作品「Arena」(競技場、2012年)は、ムエタイを職業とする台東の先住民族の小学生たちを記録したものである。ドキュメンタリーとリサーチをベースにしたプロジェクトは、ビデオ素材と組み合わされ、2010年代の台湾の現代アートにおいて最も人気のある形式のひとつとなった。再発見への意志と、隠された歴史や社会的現実の両方を理解しようとする欲求は、単に美的な物語を提供するだけでなく、政治的混乱に即座に対応する方法論を提供する一種の運動となった。
CHANG En Man, 「Arena」2012, ビデオ, 7'51", ©Chang En Man
国民党政府の親中派政策への不満は、ついに立法院の占拠で有名な「ひまわり学生運動(Sunflower Student Movement)」(2014年)へと発展した。この学生運動は一種のエネルギーを生み出し、アートシーンにもアイデンティティの可能性を呼び起こした。歴史的なテーマを再度取り上げ、より批判的な視点が提供されている。
OCACのバンコクでのプロジェクトにも参加したシュウ・ジャウェイ(Hsu Chia-Wei、許家維)は、独自の詩的な語り口で、台湾だけでなく他のアジア諸国の歴史的な複雑さを論じた。彼のビデオ作品『Huai Moi Village』(回莫村、2012年)と『Ruins of Intelligence Bureau』(廢墟情報局、2015年)は、タイ北部に住んでいた旧中国国民党/CIAの諜報員の物語を表現する試みである。『Ruins of Intelligence Bureau』では、タイの伝統的な人形劇を用いて、ラーマーヤナと諜報員たちの実話を織り交ぜた物語を演じている。『White Building』シリーズ(『白大樓』、2016年)も同様の手法で、プノンペンの白い建物の物語を、残虐なクメール・ルージュ政権を生き抜いた伝統音楽家の歌で表現している。
HSU Chia Wei,「Ruins of Intelligence Bureau」, 2015, video, 13'30", ©Hsu Chia Wei
東南アジアにおける同様の方法論や関心事は、その後の世代にも受け継がれている。アーティスト リー・クエイ・ピー(LI Kuei Pi、李奎壁)の2チャンネルビデオ作品『Diamond Dream』(鑽石夢、2020年)は、パリの都市景観を再現することを目的としたプノンペンの新開発地区Koh Pichのモダンダンスカンパニーについて語っている。『Diamond Dream』はまた、植民地時代の過去とグローバル化した現在とのつながりを議論するために、その物語を伝えている。アーティストのジャン・シュウ・ジャン(ZHANG XU Zhan、張徐展)は別の方法を選択した。外国の物語を探求する代わりに、彼は自分の家族の伝統的な工芸品を変化させて表現することに取り組んでいる。ジャン・シュウは家業の4代目で、葬儀の際に亡くなった親族への供物として燃やす伝統的な紙の模型を制作している。ジャン・シュウは、これらの材料をアニメーションの基礎として、紙製の人形を使ったストップモーション・アニメーションのシリーズを展開している。
近年、この島では先住民族の現代アートの新しい波が注目されている。それはこの島の過去と結びついているだけでなく、先住民族である台湾人と太平洋文化圏の間でオーストロネシア文化の共有遺産として国際的に認められている。パイワン族出身の若手アーティスト、リャルジェケラン・パタダルジ( Ljaljeqelan Patadalj )の映像作品は、台湾先住民の新世代の意識を表している。彼の作品「Rakaman」(2020年)では、作家の幼なじみでもある若い男女が自らのアイデンティティを表現するために木立の中で裸になっている。すなわち、伝統的な部族の衣服も現代の衣服も、彼らが実際に誰であるかは表すことはできないのである。
LI Kuei Pi,「Diamond Dream」2020, 2チャンネル・ビデオ・インスタレーション, 11'40", ©Li Kuei Pi
一言で言えば、台湾の現代アートは鮮やかで多様性に富んでいる。国際的なアートシーンでは無視されがちな台湾のアートであるが、そのアウトサイダーとしての特徴は、台湾のアーティストたちの芸術的な戦略、巧みな手法、知的な考え方によって、別の可能性をもたらしている。台湾の現代アートは、政治的背景に強く影響を受けながらも、真実と幻想を喚起する独立した語り部としての性格を示している。台湾の芸術の複雑さは、この島自体の複雑さを映し出す鏡であり、アジアの芸術ネットワークの深いつながりを再発見する方法論を提供しているのではないだろうか。
Takamori Nobuo
タカモリ ノブオ(Takamori Nobuo)
インディペンデント・キュレーター、キュレーター・コレクティブ「Outsiders Factory」ディレクター、主な展覧会キュレーション作品として、「Post-Actitud」(2011年、Ex Teresa Arte Actual、Mexico DF)、「South country, South of Country」(2012年、Zero Station、ホーチミン市&Howl Space、台南)、「The Lost Garden」(2014年、Eslite Gallery、台北)、台湾国際ビデオアート展2014「The Return of Ghosts」(Hong Gah Museum(鳳甲美術館)、台北)、「Is/In-Land: Mongolian Taiwanese Contemporary Art Exchange Project」(2018年、976 Art Gallery、ウランバートル、Kuandu Museum of Fine Arts(関渡美術館)、台北)、「The Middleman, the Backpacker, the Alien Species and the Time Traveler」(2019年、TKG+、台北)、「The Secret South: from Cold War Perspective to Global South in Museum Collection」(2019年、TFAM、台北)等がある。