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2024年5月25日 ディビッド・ウィリス(翻訳:藪本 雄登)
All photos by David Willis
トンボ
私とベトナムの関係は、2008年にニューヨークの大学を卒業し、ホーチミン市(ベトナム南部の経済都市で、ベトナム戦争終結時に正式名称が変更されたにもかかわらず、地元の人々には旧名サイゴンとして親しまれている)に引っ越したときに始まった。人類学を学んだ私は、いつかベトナム文化の研究者になれるかもしれないと思い描きながら、ベトナム語の学習を始めた。ホーチミン文学社会科学大学(the Ho Chi Minh University of Literature & Social Sciences)での集中語学コースに始まり、その後、家庭教師のタイン・リエム(Thanh Liem)がフーニュアン(Phu Nhuan)地区の建物が密集した路地裏にある私の家まで来てくれ、屋根付きの屋上バルコニーの床に座って勉強したものだった。
サイゴンは、メコンデルタ地帯の入り口に広がっている。広大な沼地と水田のネットワークで、メコン川は無限に分かれ、蛇行しながら海へと流れ落ちていく。にぎやかな中心部から市境までスクーターを走らせると、そこにはアヒルやハンモック、水面から顔を出すハスの花畑があり、穏やかで時を超越したデルタ地帯が広がる。2009年のある日、リエムと一緒に勉強していると、屋上でトンボの大群が私たちを取り囲み、20分ほど音を立て飛び回り、完全に勉強の気が散ってしまった。これが普通なのかと尋ねると、リエムは笑って、サイゴンでも彼が育ったデルタ地帯の農地でもよくあることだと言った。
その1年後、ニューヨークに戻り、美術評論の修士課程に入学し、ベトナムは遠い記憶となった。サイゴンをスクーターで走り回り、街角で麺をすする生活は、立ち食いピザのスライスや混雑した地下鉄の停留所での生活に取って代わられ、画廊や美術館を訪ねてマンハッタンを横断する生活になった。そして2011年のある日、MoMAに足を踏み入れた私は、ディン・Q・レの《農民とヘリコプター(The Farmers & The Helicopters)》と題されたビデオ/インスタレーションに出会い、この2つの世界が衝突した[1]。
[1] ディン・Q・レ、《The Farmers and the Helicopters》(2006)、3チャンネル・ビデオ、ヘリコプター、サイズ可変)は、オーストラリアのクイーンズランド・アート・ギャラリーで開催された「第5回アジア・パシフィック・トリエンナーレ」の委嘱作品。トゥアン・アンドリュー・グエンとハー・トゥック・フー・ナムとの共同制作。ビデオ・インスタレーションには、レ・ヴァン・ダン、チャン・クオック・ハイ、チャン・ヴァン・ジアップ、ヴオン・ヴァン・バン、ファム・ティ・ホン、チャン・ティ・ダオのインタビューと、『アポカリプス・ナウ』(フランシス・フォード・コッポラ監督、1979年)、『プラトーン』(オリバー・ストーン監督、1986年)、『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ監督、1978年)、『俺たちは兵士だった』(ランドール・ウォレス監督、2002年)、『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック監督、1987年)、『7月4日に生まれて』(オリバー・ストーン監督、1989年)の映像が含まれている。ベトナム現代美術データベースのウェブサイトはこちらから。
Installation view of Projects 93: Dinh Q. Lê, by Dinh Q. Lê in collaboration with Tran Quoc Hai, Le Van Danh, Phu-Nam Thuc Ha, and Tuan Andrew Nguyen. The Museum of Modern Art. Gift of the artist, Fund for the Twenty-First Century, and Committee on Media and Performance Art Funds. © 2010 Dinh Q. Lê. Courtesy the artist; P.P.O.W. Gallery, New York; Shoshana Wayne Gallery, Santa Monica; and Elizabeth Leach Gallery. Photo: Jason Mandella.
この作品は、3チャンネルのビデオと、ベトナムのアマチュア・エンジニアであるチャン・クオック・ハイ(Tran Quoc Hai)がデルタ地帯にある故郷の農家の協力を得て廃品から構築されたヘリコプターの実物で構成されている。ビデオには、ヘリコプターを製作した男たちのインタビュー映像と、戦争中にヘリコプターに監視されたり銃撃されたりした恐ろしい体験を語る年配のベトナム人の証言が収められている。インタビュー映像には、戦時中にヘリコプターが空爆や爆撃を行ない、ベトナムの人々を恐怖に陥れる様子を描いたハリウッド映画の映像が散りばめられているが、その映像は全く異なる内容で始まる。トンボの大群とベトナム語の心にしみる美しい歌から始まるのだ。
トンボが低く飛ぶと雨が降る。
彼らが高く飛べば、太陽は輝く。
そのあいだを飛べば、霧雨になる。
まるで一生を経たような気分であったが、2024年3月、アウラ現代芸術振興財団(the Aura Contemporary Art Foundation)が主催するA.ファーム・レジデンシー・プログラム(A.Farm Residency Program)で批評家兼キュレーター・レジデンシーをしていたとき、サイゴンのグエン・アート・ファウンデーション(the Nguyen Art Foundation)で開かれたオープニングで、私はディンに出くわした。私は昆虫についてのこの論文を書いていることを話し、ヘリコプターとトンボのビデオをもう一度見たいと伝えた。彼はうなずき、「そうそう、トンボの子守唄と一緒にね...ヘリコプターも昆虫だからね」と言った。
面白いことに、私たちはあることを覚えているが、あることは忘れている。私たちの記憶は細部を削除して新しいことを創り出すことがある。実際、ディンが思い出させてくれるまで、私はその歌のことをすっかり忘れていた。数週間後、ディンが送ってくれたビデオを見たが、最初に見たときよりもはるかに深い感動を覚えた。なぜなら、それまでの数年間でベトナムとの私の個人的な繋がりがより強くなったからだ。私は彼にお礼のメッセージを書き始めたが、「ディンはとても忙しく、ストレスを抱えているので、もう携帯電話に通知を入れないほうがいい。」と考えて送らなかった。彼はその日の午後、脳卒中で亡くなった。
美術史家のモイラ・ロス(Moira Roth)とともにヘリコプターの映像について語ったディンはこう残した。「私は、人間の持つ性質が物理的な証拠だけでなく、出来事に関する私たちの記憶も積極的に消去する方法に興味がある。私たちは全ての記憶を保持することはできない。なぜなら、全ての記憶が私たちのためにあるわけではないからだ。そこで問題になるのは、その性質の意図するとおり、どの記憶を残し、何を手放すかということである。」彼はカリフォルニアに住んでいたとき、ヘリコプターが森林火災を消火している光景を見て、幼少期に難民として米国に移住する前、ベトナムでヘリコプターを見た記憶がよみがえった[2]。しかし、戦争直後のその時期には、ベトナム周辺をヘリコプターが飛んでいたわけではない。いわゆる彼の記憶はアメリカで見た「地獄の黙示録」のようなハリウッド映画に由来する架空のイメージであった。それゆえ、彼の作品には本物の記憶と偽物が「織り交ぜられている」のである。これは比喩以上のものであり、彼の芸術活動の主な特徴は、戦争中の本物の写真と架空の映画のスチールを文字通り織り交ぜていることにある。
[2] Le, Dinh Q, quoted in Roth, Moira.Obdurate history:ディン・Q・レ、ベトナム戦争、写真、記憶」。アートジャーナル』60巻2号、2001年、44頁。
Dinh Q. Le Cambodia: Reamker #11 (2021), Epson inkjet prints on Epson doubleweight matte paper, acid-free double-sided tape, pH-neutral linen book tape, 165 x 220 cm, image courtesy of Nguyen Art Foundation.
MoMAに入って、ディンの作品を見たその日、私はまだベトナムにどんな冒険が待っているのか、いつか彼と一緒に仕事ができるようになるのか、まったく想像していなかった。彼と出会ったのは、それから7年後、アーティストのカム・ザン(Cam Xanh、本名チャン・タイン・ハー、Tran Thanh Ha)の紹介で、サイゴンの現代アートスペースMoTplusのキュレーターとして雇われたときだった。カム・ザンはアーティストとして生まれ変わる前、ベトナムを代表するコレクターの一人で、かつてのパートナーであるオリヴィエ・ムルグ・ダルグ(Olivier Mourgue d’Algue)とその友人ダニエル・ハワード(Daniel Howald)と共同で、ベトナム現代美術の最高のコレクション(ポスト・ヴィダイ・コレクション、The Post Vidai Collection)を築き上げた。私が彼女に会ったのは、2016年、Dia Projects(カムザンがアーティストのRichard Streitmatter-Tranと共同で設立したアートスペースで、ギャラリー・クウィン(Galerie Quynh)がドンコイ通りにあった頃、その数軒隣にあった)でレ・ヒエン・ミン(Le Hien Minh)との衝撃的な二人展を開催したときであった。コンセプチュアルなインスタレーションを特徴としたこの展覧会は、それまで私がベトナムで見た中で最も「現代的」なものであり、カム・ザンと話した結果、アート・アジア・パシフィック誌(Art Asia Pacific magazine)で展示をレビューするきっかけを与えてくれた[3]。
その頃、私はベトナムに戻り、ホーチミン科学大学(The Ho Chi Minh University of Science)で西洋美術史の講師として働きながら、独自に東南アジアの美術を研究していた。契約終了後、私はタイの美術に親しむためにチェンマイに移り住んだが、1年後にサイゴンを訪れた際、カム・ザンが私を自宅に招いてくれた。彼女のリビングルームに座り、彼女の新しいアートスペースMoT+++(通称MoTplus)のキュレーターにならないかと誘われながら、壁にちらつく4チャンネルのディン・Q・レのビデオ(9.11のニューヨークを揺るがしたテロ攻撃についての抽象的な瞑想)から目が離せなかったことを鮮明に覚えている。私は即座に同意した。
[3] この記事はAAPのウェブサイトでは公開されていませんが、こちらから筆者のレヴューにアクセスできます。
Le Hien Minh, The Production of Man (Balls Revisited) (2016), Vietnamese handmade Dzó paper, Glass Jar, Table, Dry Powder Pigment, image courtesy of Dia Projects.
蚕(カイコ)
その1ヵ月後、カム・ザンはディン・Q・レを含む多くのアーティストに会いに私を連れて行ってくれたが、その前に私はMoTplusを訪ねた。メイン展示スペースから離れた奥の部屋に、彼女はとても不思議なインスタレーションを展示していた。作品のタイトルは《The Changing Room》[4] であった。全裸になり、無数の蚕の死骸が散らばった絹の繭の中に一人で入っていくというもので、それまで見たことも、それ以降見たこともない作品だった。
アメリカ、ドイツや日本のような 「第一世界(first world)」の国では、このようなアート作品を制作することはまず不可能だろう。腐敗した昆虫の死骸でいっぱいの密閉された空間に足を踏み入れることは、衛生上の問題によって規制されるはずだ。これはベトナムの芸術は実際、ある意味で西洋よりも自由であるという皮肉である。公的な規制や検閲制度があるにもかかわらず、実際には、遅々とした当局は多くのアート活動にはほとんど無関心であり、他の国では決して許されないようなことでも、実際には許されるのだ。
カム・ザン自身は《Changing Room》に足を踏み入れることはなかった(後年、彼女は私にこう説明してくれたが、その理由のひとつは、戦後の混乱期にハノイで育ち、家の中にネズミや虫がいた幼少期に由来する虫恐怖症のためである。)彼女はMoTのスタッフに、彼女の指示に従って作業を実行するよう任せ、中に入った訪問者への出口インタビューを通してのみ作業を体験した。写真撮影は禁止されていた。来場者はカーテンの向こうで私的に服を脱ぐよう求められ、靴も服も電話も何もない状態でインスタレーションに入った。ベトナム南部のゆったりとした環境では、時間の流れが違ってくる。急ぐことはまったくなく、屋内で好きなだけ時間を過ごすことができた。それは、例えば草間彌生の《インフィニティ・ルーム(Infinity Room)》に一人で入って1分間の自撮り撮影をするよりも、はるかに深く謙虚な体験だった。
[4] Cam Xanh 《The Changing Room》 (2017). フェイク白絹、蚕、木材、アクリル絵具、寸法可変、視覚資材は許可されていません。ここで作品の視聴者への退場インタビュー視聴可能。
[5] 例えば、Factory Contemporary Art Centerのオープニング展示で、UuDam Tran Nguyenが強力なレーザー光線で紙の的に穴を開けるインスタレーションを行ったことが懐かしく思い出される。他にも、Galerie QuynhでのTruc Anhの個展では、紫とゴールドの光り輝く海が床を覆い尽くし、前述のThe FactoryのTuan Mamiの個展では、ID規制なくして、試飲できる野生のパイナップル酒のボトルを来場者に配っていた。これら以外ににも、MoTplusの屋内パフォーマンスで乾燥させた馬糞の山に火をつけたモンゴル人アーティストEnkhbold Togmidshiirev、All Animals Are Equalのオープニング・パフォーマンスで致死量に近い水を飲もうとしたLap Xuan、A. Farmで48時間ノンストップのノイズ・ジャムを披露したRan Cap Duoiなどの表現などがある。
Cam Xanh, a recent work featuring marked silkworm cocoons in a plexiglass box, with a dead moth placed beside it (not part of the work), MoT+++ La Astoria, photo by author, March 2024.
もちろん写真はないので、私自身の記憶に頼らざるを得ないが(あるいは、来館者への出口インタビューのアーカイブはこちらで見ることができる)、私が最もはっきりと覚えているのは、(合成の)白い「絹」の唇を分けてインスタレーションに足を踏み入れたときの、子宮に這い戻るような体験と、内部の虫の死骸の強烈なカビのような臭いだった。つまり《Changing Room》の制作・展示過程において醸成された香りである。興味深いことに、本稿の準備のためにカム・ザンと作品について話したとき(5年後、今度は予感したかのようにディン・Q・レのテレビを消して、もう一度彼女のソファに座っていた。)、彼女は私の記憶から抜け落ちていた事柄、特にインスタレーションの床に置かれた、サイズの異なる3つの黒い木箱の存在のことを思い出せた。
私の記憶では、それはただ白い布の部屋で、おそらく中央に布の「柱」があったように思った。だが、いや違う。確かにそうだ。そこには3つの黒い箱があり、中に数匹の蚕蛾が落ちて死んでいた以外は空だった。カム・ザンと議論しながら、私はこの箱を棺桶だと思っているのかどうか尋ねた。すると彼女はノーと答えた。それらはどちらかというと、偽の窓のようで、夜空への開放の兆しを誘い出し、その無限の先はおそらく死以外に永遠に手に届かない。そして彼女は箱の中(奥の部屋)に箱があり、その箱自体が箱の中(ギャラリーの広い空間)にあり、箱の中(ギャラリーの入っているホテルの建物)に箱がある。それらは無限に繰り返される箱のようで、小宇宙と大宇宙の鏡のような関係、死と再生のサイクルを連想させる、と指摘した。
私たちは笑いながら、作品にまつわる印象的な出来事(例えば、ギャラリストが服を脱いでドアを間違え、裸でホテルのキッチンを通って出てきたこと、あるいは有名な美術館の館長が無造作に服を着たまま中に入り、作品の神聖さを犯して写真を撮ったことなど)を語り、カム・ザンは10代の娘の話をした。カム・ザンの娘は、中に入ると3つの黒い箱の中でいちばん大きな箱に入りたいという気持ちに駆られ、しばらくその中にぴったりと座っていたという。このように、台本がなく、常に進化し続ける作品の性質は、単独の鑑賞者によって一時的に完成させられるだけであり、虫のライフサイクルを超えて常に変化し続けるのである。
孵化していない蚕が中に入れられるところから始まり、幼虫が出てきて、蛾に変態していく。しばらくの間、蛾は偽物のシルクにひらひらと舞い、そして死んでいく。その後腐敗し、最初は微生物の摂食活動により臭いが非常に強烈であったが、バクテリアも死滅して最終的には弱くなり、その後には乾燥した硬皮だけが残った。
Cam Xanh, work from the F Is For Fake series, embellished fake designer handbag, Post-Vidai Collection, photo by author, March 2024.
合成「偽物シルク」の使用に意味があるのかと尋ねると、彼女は肩をすくめた。カム・ザンはキッチュ(安っぽいもの)を恐れたことはない。実際、彼女はキッチュを謳歌しており、(象徴的には等価であるにもかかわらず)試算評価できる有形体を本物とみなし、別のものを偽物とする人間の偽善や、あるいは、食用や商業的利用のためには動物の死は許されるが、芸術の名目では許されないという偽善から、悪戯的な面白さを引き出しているのだ。彼女は、最近のカラーシルクは幼虫そのものを染料で処理し、自然な色のシルクを紡がせることで生産されることが多いこと、シルクの生産過程では、蚕はそのライフサイクルを全うすることができず、繭を収穫するときに殺されてしまうことを指摘した。
蚕は、カム・ザンの芸術活動において繰り返し登場するモチーフである。ひとつには、彼女が主に絹の繭で構成された作品を数多く制作してきたことが挙げられるが、もうひとつは、彼女のアートスペース/コレクティブ「MoT+++」(間違いなく彼女のこれまでの最高傑作であり、ヨーゼフ・ボイスのような生きた社会彫刻)の名前が蚕にちなんでいることだ。ベトナム語は音調言語であるため、「mot」という単語は、あるイントネーションでは数字の「1」を意味するが、別のイントネーションでは「蚕」を意味する。そして《The Changing Room》の蚕のように、MoTplusは常に無限に進化し続けている(プラス1プロジェクト、プラス1メンバー、プラス1アートスペース)。
白アリ
《The Changing Room》を訪れてから10カ月ほど経つと、私はある高校の椅子の上に立ち、壁に取り付けられたプレキシガラスの箱に蚕の繭を捨てながら、自分の人生が思いもよらない方向に進んだことに驚いていた。MoTplusでのプログラムのキュレーションに加え(その年、MoTplusではパフォーマンス・アートのみを行い、厳密には展覧会は行わなかった。 想像できるだろうか。実験的なパフォーマンスが1年間続いたのだ。)、カム・ザンは私にコレクターであるクィン・グエン(Quynh Nguyen)のアートアドバイザーとして仕事も与えてくれ、グエン芸術財団の最初の職員となった。その後、財団はベトナム有数の非営利芸術団体に成長した。
Dinh Q. Le, Adrift in Darkness (2017), Digital print on Awagami bamboo paper, laser cut and woven onto cane structure, installation dimensions variable, image courtesy of Nguyen Art Foundation.
私はクィンに収集のアドバイス(レー・ホアン・ビック・フオンLe Hoang Bich Phuongのシルク画、ファム・タン・タムPham Thanh Tamの戦争スケッチ、ディン・Q・レDinh Q. Leの壮大な織物による写真インスタレーション 《Adrift In Darkness》」 − NAFとポスト・ヴィダイ・コレクションPost-Vidai Collectionが共同で購入)をし、またルネッサンス・インターナショナル・スクール(クィンと夫のトゥエンTuyenがサイゴンに設立した複数のインターナショナル・スクールの最初の学校)での彼女のコレクション作品の設置も監督した。現在、NAFはサイゴンの両側にある2つのEMASIスクールのキャンパス内に、2つの美しいアートギャラリーを構えている。
とにかく、私はそこにいて、カム・ザンのインスタレーション《Socrates Apology(ソクラテスの弁明)》の維持管理として、プレキシガラスの箱に蚕の繭を入れながら、椅子の上に立ち、運命の浮き沈みについて思いを巡らせていた[6]。この作品は、学校のためのサイトスペシフィックな作品として構想された。空洞の机に繭を詰め、学校の生徒たちに『ソクラテスの弁明』の一節を繭に一字一句刻んでもらった(繭は定期的に壁のプレキシガラスの箱に移される)。この文章は、ソクラテスが若い弟子たちに向かって、自分の頭で考えるように促し、「若者を堕落させた」ことを悔い改めることを拒んだ罰として、自ら進んでヘムロックを飲んで自殺する、という論争的な内容である。
[6] カム・ザン《ソクラテスの弁明》 カイコの繭、プレキシガラス、木、フェルト・チップ・マーカー、プラトンの『ソクラテスの弁明』のA4プリントアウト、中空の高校机、寸法可変。
Cam Xanh, Socrates’ Apology (2018-ongoing), Marker on silk cocoon, wood and plexiglass box, vintage school desk, copy of ‘Socrates’s Apology’, notebook, pen, installation dimensions variable, courtesy of The Nguyen Art Foundation.
このような刺激的なインタラクティブ・アート・インスタレーションを敷地内に設置している高校は、ベトナムでもどこでもそう多くはないだろう。しかし、私はバイクに飛び乗り、A.Farmという名の新しいアーティスト・レジデンス・スペースを立ち上げている町の反対側まで行かなければならなかったので、作品について考える時間はほとんどなかった。MoT、サン・アート、グエン・アート財団の共同プロジェクトで、私たちは町はずれの倉庫を改装して、ベトナム人と外国人のレジデント・アーティストが共存するアーティスト・スタジオの複合施設にしようとしていた。これはある意味、サン・アート・レジデンス・プログラム(San Art Residence Program、ディンが発案し、ゾーイ・バットZoe Buttが長年にわたって指揮を執ったプロジェクトで、当時のベトナムの新進アーティストに多大な影響を与えた)の精神的後継者であった。そして、ディン(サン・アートの創設者兼ディレクター)は、新しいプロジェクトをどのように発足させるかについて素晴らしいアイデアを持っていた。
「A.Farm」(農場)という名前は、ジョージ・オーウェルの『動物農場』にちなんだもので、ディンは、年齢やキャリア、国籍に関係なく、サイゴンのすべてのアーティストに参加してもらう「All Animals Are Equal(すべての動物は平等)」と題した大規模なサロンハング(salon hang)を立ち上げることを提案した。作品は、スタジオスペース、キッチン、イベントスペース、そしてレジデント・アーティストの寝室にまで設置される予定だった。結局、私たちはそのすべてを埋め尽くすことになったが、良くも悪くも、私はその創造的なカオスをコーディネートすることになった。
有名なアーティストもいれば、初出展のアーティストもいて、最終的に約300人のアーティストが参加したのだが、私が初めてキュレーションを担当したフォン・ブイ(Phong Bui)のキュレーション・アシスタントとして2013年に開催された「Surviving Sandy」や「Come Together」展に携わった時のことを思い出し、強烈な既視感を覚えた。その展覧会もまた、老若男女、有名無名を問わず300人以上のアーティストを取り上げたもので、前年にニューヨークを襲い、数多くのアーティストのスタジオ(フォンのスタジオを含む)を破壊したハリケーン「サンディ」の犠牲者を追悼する展覧会だった。
The Beauty of Friends Coming Together II, part of the exhibition Come Together: Surviving Sandy curated by Phong Bui, installation view, courtesy of The Brooklyn Rail & The Dedalus Foundation, photo by Brian Buckley.
フォンは根っからのニューヨーカーで、彼の雑誌『ブルックリン・レイル』(The Brooklyn Rail)はニューヨークの由緒あるアート組織だが、彼はベトナム中部のフエ(Hue)に生まれ、戦争末期に多くの難民と同じように幼少期にアメリカに渡った。ブルックリンの倉庫で美術館規模の展覧会を開催するという気の遠くなるような作業中、フォンは昼食をとりながら、キュレーター・チームに自分の人生、アート界の有名人との出会い、フエの洪水で2階まで水が来て、バルコニーから飛び降りて通りの真ん中で泳いだという幼少期の思い出などを語り、叙情的な話をしたものだった。開館を1、2ヶ月後に控えたある日、洪水で被災したあまり知られていないアーティストを2つの大きな部屋に集め、すでに100人以上いる有名な参加者に200人ほどのアーティストを加えてサロンハングを展開する計画を発表した。そして、「ディヴ、あとは頼む」と私に言った。
「A.Farm」の立ち上げでは、私はまたしても、あらゆるジャンルのアーティストが参加する巨大なサロン・ハングの事実上のキュレーターとなり、作品を選び、受け取り、吊るすという作業を連日繰り返し、大都市全体のアート・コミュニティをひとつにまとめるという、とんでもなく野心的な展覧会の開催に奔走した。私たちはどちらも成功させ、挙げればきりがないほど多くの素晴らしいアーティストを起用したが、「All Animals」から1作品だけ紹介したい。アーティスト、チュオン・コン・トゥン(Truong Cong Tung)によるビデオインスタレーションで、1チャンネルのビデオと床に敷かれたマットで構成されている[7]。
ビデオはとても短くシンプルなもので、田舎の古いテレビ画面が映し出され、語り手(おそらく政治家かジャーナリストが夕方のニュースで話しているのだろう)が映し出されるのだが、画面の表面は飛び交う白アリで覆われていた。ベトナムにおける近代性の不均等な分布についての、鋭く、痛切な解説であった。ビデオ前の床に敷かれていたマットは「チェウ」(chiếu)と呼ばれるもので、東南アジアではどこにでもある素朴な籐のマットのひとつだ。道端で広げて即席のバーベキューをする人もよく見かける。公演期間中、MoTの座席として頻繁に使用した。その展覧会には印象的な作品が数多くあったが、振り返ると、私の記憶の中でいつも際立っているのは、このチュオン・コン・トゥンの作品である。懐疑主義と楽観主義、伝統主義と順応性の逆説的な混合というベトナムの特徴を如実に物語っているからだ。
[7] Trương Công Tùngは、この件について、明確に応答してくれなかったので、私の記憶にしか留まっていない。
Florian Nguyen, drawing featured in All Animals Are Equal I, A. Farm 1.0, photo by author, 2018
オープニングの夜が終わり、疲れて汗だくになりながらも誇らしげに輝いていた私は、ディンにハグをし、彼の素晴らしいアイデアと関わる機会を与えてくれたことに感謝した。1ヶ月が経ち、私は街の向かい合う3拠点での責任の掛け持ちを果たし、燃え尽き、再びタイに戻った。これは、MoTが2024年に新しい場所で再スタートさせたばかりの「A.Farm」でのレジデンシーに戻るまで、私がMoTのためにキュレーションした最後のプロジェクトとなった。「A.Farm」で私は、自身のレジデンシースタジオで「ANIMAL HOUSE」というタイトルの期間限定サロンをキュレーションした。新進・ベテラン、外国人・ベトナム人を問わず、30人以上のアーティストが参加した。幸いなことに、ディンに最後に会ったときにそのことを話すことができ、それが、「Mini All Animals Are Equal」であったことを伝えた。ひとつのサイクルの完成であったのかもしれない。
メタモルフォーゼ(変容、変態)
「All Animals Are Equal」の翌年の夏、私はアドバイザー・プロジェクトのためにサイゴンに戻り、ギャラリー・クウィン(Galerie Quynh)でグエン・フイ・アン(Nguyen Huy An)による「Âm Sáng」(影と光の概念を融合させた、アーティストによる造語)というタイトルの素晴らしい展覧会を見た。私は過去にフイ・アンと仕事をする機会に恵まれた。フイ・アンはハノイのパフォーマンス・コレクティブPhụ Lục(The Appendix Group)のメンバーで、パフォーマンス・アートの年にMoTで6ヶ月のレジデンスを行った。その間、彼らはカム・ザンのスタジオに住み、レジデンスの終わりにはそこで一連のパフォーマンス/インスタレーションを行った[8]。ある日、私とフイ・アンの2人だけで19階のアパートに上がり、階下を流れるサイゴン川の真ん中にあるボート上での同僚のパフォーマンスを撮影した。私は愚かにも、彼の竹パイプからきついマルバタバコを吸ってしまい、咳が抑えきれず涙目になり、嘔吐しそうになった。フイ・アンは私に、ずっとベトナムにいるのかと尋ねたが、私はいや、おそらく留まることはないと打ち明けた。私もフイ・アンに同じことを尋ねた。彼は「私には、ベトナムしかない。」と答えた。
[8] Phụ Lục《from room B19.05》(2018):「Phụ Lụcは、新しい環境と空間へのアプローチとして、自分たちが住むアパートの居住空間を保存することにした。部屋の中と外、イメージやオブジェそのものの繋がりと共生、さらには味覚、空気、高度、風、地平線。水の情景は、都会の変化の速さを彷彿とさせながら、漂流とともに徐々に現れる。* Aはサイゴンの川辺からホテイアオイを持ってきた。彼らは今、19階(タワーB、トゥーティエムスカイビル/NVH/TĐ/Q2)のあらゆる家庭用品の中に生息している。05 *渡し舟、ロープ、小舟、折りたたまれた古い制服一式、D *古道具屋の市場沿いに、Eは古い錨を探している」(MoTウェブサイトより引用、こちらからアクセス可能。
Huy An, đông cuông night (2017), single-channel video, sound, decal, termite wings video: 1’ 51” decal and termite wings: dimensions variable, photo courtesy of Galerie Quynh.
フイ・アンのベトナム文化と伝統に対する厳しくも優しい献身は、「Âm Sáng」展で痛烈な輝きを放っていた。共産主義が最も厳しかった時代にあからさまな弾圧の対象となり、現在ではほとんど衰退しているか、関心を持つ人がほとんどいなくなったために完全に消滅してしまっているベトナム北部の風俗演劇やアニミズムの精神的慣習に関する調査や遺物を展示したものであった。
ここで特に触れておきたい作品がある。ギャラリーの一室全体が白アリの羽で埋め尽くされているのだ。展覧会カタログの中で、フイ・アンはこう書いている。「2017年5月19日の夜から20日の明け方にかけて、白アリが周囲の山からイエンバイ(Yên Bái)のドンクオン寺院 (Đông Cuông)での精霊憑き(hầu dồng)の儀式に飛び出した。翌朝、私は寺の床に落ちた白アリの羽を拾った[9]。」憑霊儀式が進行中であり、白アリの羽がブンブン飛んでいる映像が会場のテレビで流され、ギャラリーの窓には色のついたステッカーが部分的に貼られ、夜から昼へ、あるいは伝統が忘却の彼方へ消えていくような雰囲気を醸し出していた。
[9] Huy An, 《đông cuông night》 (2017), シングルチャンネルビデオ、音、転写ステッカー、白アリの羽ビデオ、サイズは可変。こちらの作品群について詳しくは、ここから入手できる展覧会カタログをご覧ください。
Truong Cong Tung, Unannounced Appearance (Harbinger) (2019), installation view, courtesy of San Art.
同じ年、私はチュオン・コン・トゥンよる白アリを使った別の作品を見た。フランス人アーティストのフレディ・ナドルニー・プストシュキン(Freddy Nadolny Poustochkine)とサンアートで開催された彼の二人展であった。《Unannounced Appearance (Harbinger)[10]》 と題された問題の作品は、側面がメッシュで覆われた木箱の中に白アリの羽を入れたもので、木製の小さなテーブルの下に扇風機が設置され、白アリの羽が箱の側面に当たって羽ばたくようになっている。よくあることだが、この作品に関する私の記憶は不完全で、カタログを見て初めて、このインスタレーションには揺らめく電気ロウソクと、隣の壁に取り付けられた小さな絵もあったことを思い出した。よく覚えているのは、近くの窓にテキストの断片が印刷されていたことで、作家兼キュレーターのグエン・ホア・クイン(Nguyễn Hoàng Quyên)はカタログのエッセイで次のように述べている:
チュオン・コン・トゥンの多くの異質な作品をつなぐ糸は、物質的であれ非物質的であれ、メタモルフォーゼに執着することだ。例えば、「不在の肖像」という作品では、民族誌学者ジャック・ドーネス(Jacques Dournes)によって記録された、彼らの宇宙的世界観に関するベトナムの中央高地民の口述を引用している。私は人々がこう言うのを聞いた。「私の目は騙され、忘れていき、真実を知らない。」 内なる精神は常に変装し変容すると言う土着の信仰を超えて、この作品は作者の不安定性やズレについても描いている。中央高地民が語り、宣教師兼民族誌学者がフランス語の翻訳を通してその台詞を記録し、作家グエン・ゴック(Nguyên Ngọc)がベトナム語に翻訳し、アーティストが匿名の口述を抜き出し、中間テクスト的なアート作品に変換する。[11]
[10] Trương Công Tùng 《Unannounced Appearance (Harbinger)》(2019)、マルチメディアインスタレーション、昆虫の羽、工業用扇風機、電気ロウソク、ペインティング。
[11] Nguyễn Hoàng Quyên, Wild Legacies, catalog essay for The Sap Still Runs exhibition at San Art (2019), p.12.
Truong Cong Tung, Portrait of Absence (2019), Printed text, “I have heard people say: "My eyes are deceiving, forgetting, not knowing the truth".” Jacques Dournes, in “Souls and Dreams” chapter, in the book “Southern Indochina Tribes”, translated by Nguyen Ngoc, installation dimension variable, courtesy of Truong Cong Tung.
箱の中の箱、箱の中の箱......それでもなお、「窓」から飛び出そうとする蚕のように、参加鑑賞者は真実を見極めようと努力し続ける。幸いなことに、エスノグラフィー(民族誌学)は信頼性の低い「科学」であり、真実は陳列ケースの中の蝶のように固定できるものではないことを、私はずいぶん前に学んだ。それどころか、創造的な行為によってのみ、私たちは真実に近づくことができるのである。これはやり遂げるべきことである。
デビッド・ウィリス
ポルトガル、リスボン
2024年4月
著者略歴:コロンビア大学において、社会文化人類学の学士号を取得し、スクール・オブ・ヴィジュアル・アートで美術批評と執筆の修士号を取得した。東南アジアの現代アートの専門家であり、ベトナムとタイに10年間滞在した経験を活かし、『ブルックリン・レイル』誌、『アート・アジア・パシフィック』誌、『アート&マーケット・マガジン』誌等に寄稿し、リチャード・コー・ファイン・アートと定期的にコラボレーションを行い、シンガポールのギャラリーで展覧会のキュレーションを行うほか、書籍や展覧会カタログにも寄稿している。現在、著名なタイ人画家Natee Utaritに関する本を執筆中で、2024年秋にRKFAバンコクから出版予定である。