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活躍するメコン川流域のアーティスト(3)――台中(国立台湾美術館)のアジア・アート・ビエンナーレから

熱に浮かされて日常も非日常も幻想的なバンコクから、寒さで季節が感知される、どこを切っても散文的な風情の台湾にやって来ると、展覧会に招待される東南アジアのアーティストはかなり減っている。私はすでに、東アジアに足を踏み入れているのだった。

  • (1)国立台湾美術館

台湾の中央に位置する台中の国立台湾美術館(1)で開催されている今回のアジア・アート・ビエンナーレの出展アーティスト30組中、東南アジア出身は11組、メコン川流域のアーティストは、さらに減って4組。世界のどのビエンナーレにも顔を出すタイの売れっ子若手アーティスト、Korakrit Arunanondchai(2)を除けば、同じくタイのアーティストとキュレーターのコラボラティブ・チーム、jiandyin(3)、ラオスのTcheu Siong(4)、ミャンマーのSawangwongse Yawnghwe(5)である。

その分、台湾のビエンナーレには韓国や日本など東アジアのアーティストが増える。すると表現の傾向が観念的(日本の田村友一郎は、三島由紀夫の小説『午後の曳航』を題材にしたインスタレーション、韓国のPark Chan-Kyongは、西田幾多郎の京都学派と特攻隊員の思想的繋がりを追究するヴィデオ)になる。
今ビエンナーレのタイトル“The Strangers from beyond the Mountain and the Sea”に窺われるテーマ「ストレンジャー」に対する考え方も、感覚的、経験的ではなく、観念的、概念的になっている。気候は人間の思考に変化を生じさせる。ヨーロッパでも南と北のルネサンスに違いがあるのと同断である。

とすれば観念が、メコン川流域の周辺つまりインドシナ半島の高地に投影されて、本展のキュレーターである二人のアーティスト、Hue Chia Wei(台湾)とHo Tue‐Nyen(シンガポール)に、あの謎めいた「Zomia」(6)の引用を唆したのだろうか?
そうではないと思う。むしろ、インドシナの麻薬生産で有名な無法地帯が、国家の統治の及ばない地域の観念「Zomia」を、人類学者のJames C.Scottに喚起させたのだ。
アジア・アート・ビエンナーレは、それを証明する作品を展示していた。前稿のバンコク編の冒頭に挙げた中国人アーティスト、Liu Chuangの制作したヴィデオ「Bitcoin Mining and Field Recordings of Ethnic Minorities」(7)である。その映像が、少数民族のナレーターの聞き慣れぬ言語の響きと相俟って、私を再びメコン川流域の現実へと連れ戻した。

メコン川流域は、Chuangの雄渾な映像で再び感覚的かつ地政学的な現実へと着地したのである。かのゴールデン・トライアングルばかりではない。山岳に住むマイノリティのエスニシティやヴァーチュアル・リアリティ(仮想通貨)にコネクトする河川の大規模電源開発によって、権力の空白地帯が生み出されている。
この究極のアナーキーなローカルこそ、メコン川流域の国々に熱風を吹き込み、そのエネルギーを呼吸するアーティストの創造に、見知らぬアウラ(strange aura)を纏わせるのではないか? そのアウラとは、ベンヤミンの言うような独自性や一回性ではない。この地域に特有の地政学的な力関係によって奇跡的に享受される絶対的な自由から帰着する特異性である。メコン川流域一帯がアートのエルドラドとなる夢を人々に見させるのは、この特異性なのだ。
シンガポール・ビエンナーレ、「SPECTROSYNTHESISⅡ」、アジア・アート・ビエンナーレと渡り歩く間に、私はいつしかメコン川流域から目を離せなくなっていた。

文/市原 研太郎

美術評論家。1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿多数。著書に、『マイク・ケリー "過剰の反美学と疎外の至高性"』(1996年)、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)、『現代アート事典』(共著、2009年)等。また、『Identity Ⅳ』(2008年)、『Reality/Illusion』(2010年、ベルリン)等の展覧会企画も手掛ける。現在は、ウェッブサイトArt-in-Action(http://kentaroichihara.com/)を中心に活動(大型国際展やアートマーケットなど世界のアートシーンのリサーチ)を展開している。