ARTISTS
「お待たせしてすいません」。
そう言って差し出した手は大きく、握る力は強いにもかかわらず、羽毛布団をつかんだ時のような弾力ある柔らかさが返ってきた。
彼の名はエーコー。ミャンマーのコンテンポラリーアートシーンを代表する作家だ。彼の人生も作品も、民主化運動とは切っても切れない深い繋がりがある。
エーコーは1963年、ミャンマー西南部エーヤワディ地方の中心都市パテインに生まれた。実家はサンダル販売業に従事しており、彼も学校を卒業すると家業を手伝った。芸術とは無縁だった彼が、どうしてアートの道へ進むことになったのだろうか。
「美しい絵を、所有してみたかったんです。でも高いでしょ? だったら自分で描けばいいと、21歳の時に画家のミンソー先生に弟子入りしました」。大きな瞳の周りを笑い皺で縁取りながら、楽しそうに答えるエーコー氏。当初は、花や風景の写実画を描いていたという。
しかしその頃、全土の若者たちがを席巻した民主化運動に彼もまた、身を投じるようになる。警察に追われるようにパテインを去り、ヤンゴンへ出て向かった先は、当時、芸術家たちの抵抗運動の象徴的存在となっていたインヤーギャラリー。ヤンゴンのモダンアート界を牽引するアウンミン率いるギャラリーだった。
この時期、彼は抽象画に没頭。1990年には15名のアーティストとともに「モダンアート90」を立ち上げるが、その活動が政治的ととられ投獄されてしまう。本1冊ないトイレと毛布だけの監獄で没頭したのは、瞑想と思索だった。3年に及ぶ獄中生活で、それでも彼は大きなものを得たという。
「ひとつは、自分の心をコントロールできるようになったこと。過酷な環境で生き抜くためには必要なことでした。もうひとつは、自分がやるべきことがクリアになったことです。政治課題とアートの関係を自分の中で深化させることができたのは、くしくも獄中での生活でした」。
1993年に釈放されるが、彼の投獄のせいで家族も家業も立ち行かなくなっていた。警察の目を恐れた周囲の人たちは誰も助けてくれず、酒に溺れる日も少なくなかった。それでも4、5年もたてば状況は好転し、アートへの情熱も再燃。この頃より、ビデオなどを使ったパフォーマンスアートへ傾倒していく。
それにしても軍政による芸術の弾圧が続く中、多くのアーティストたちは活躍の場を海外へ求めて旅立っていったが、彼はなぜ、ミャンマーにとどまったのだろうか。
「簡単なことです。ミャンマーを愛していたからです。再度の投獄は怖かったですが、やるべきことはやるしかありませんから」。
その後、「モダンアート90」は政治・社会と芸術との結びつきの中で、新たな世紀に新しいムーブメント起こすことを意図し、2000年に「ニューゼロアートグループ」と改名。さらに2008年には「ニューゼロアートスペース」と発展させていった。
Aye Ko What is life? 2009(写真提供:エーコー)
Aye Ko What is peace? 1 2011(写真提供:エーコー)
Aye Ko What is peace? 2 2017(写真提供:エーコー)
Aye Ko What is peace? 3 2017(写真提供:エーコー)
2010年代に入って民主化が進み検閲は廃止となり、2016年にはついにアウンサンスーチー率いるNLD(国民民主連盟)による文民政権が誕生する。
「長い間切望してきた“私たちの政府”が誕生し、もはや政府と戦う必要はなくなりました。今は新しい国を創るためにすべきことに手をつけています」。
現在、ニューゼロアートスペースには多くの若い芸術家たちが集い、週末にはエーコー氏が講師を務めるアートクラスを開催。後進の指導にあたっている。さらに郊外で村の子どもたちを対象としたアート教室や、伝統工芸の継承活動にも力を入れている。未来へと舵を切る、かつてのレジスタンスアートの旗手。しかし、最後にふとこうももらした。
「でもね、“私たちの政府”が道を踏み外すことがあればまた、アートパフォーマーとして闘っていくことになるかもしれませんよ」。
あの時代、彼のパフォーマンスは血と涙と苦痛に満ちていた。羽毛布団のような彼の暖かい手が、いつまでも今のままであることを願ってやまない。
パフォーマンスアートについて、教え子たちと熱く討論
アートクラスで若者たちに講義するエーコー。アートクラスに集まる若者たちは「表現初心者」が多い
アートクラスで若者たちに講義するエーコー