ARTISTS
マウンデイの絵からはいつも、ざらりとした何かが漏れ出している。草原で衣服に食い込むひっつき虫のように、夕闇の池で肌にまとわりつくヤブ蚊のように、観る者の意識に絡みつく。
アーティストたちがペンや絵筆で権力に立ち向かい次々と投獄されていった1980年代。1979年生まれの彼は10歳にも満たず、教科書に落書きばかりしている漫画好きの少年だった。
教師の父親と商売人の母親のもとに生まれ、幼少時から絵も詩も好きだったが、大学では開発研究学を専攻し、卒業後はエンジニアになった。「生計を立てることしか考えていなかったからね」とはにかむマウンデイ。作品から勝手に思い描いていた奇矯なイメージとは裏腹に、眉間に皺を寄せながら言葉を選んで話す彼はごく普通の、でも少しばかり神経質な雰囲気のある好青年だった。
彼が本格的に詩や絵の制作に取り組みだしたのは、27歳になった2006年頃から。まだ検閲が厳しかった時代で、多くのアーティスト同様、検閲をすり抜けやすい“形が残らない芸術”パフォーマンスアートにも取り組んだ。2008年からヤンゴンで始まったパフォーマンスアートのイベント「抑圧を超えて/Beyond Pressure」の立ち上げにも関わっている。
2009年にはタイへ渡り、チュラロンコン大学で開発学を修めてNGOで働くなどし、7年間滞在。仕事と並行しながら、ミャンマーの外の世界を中心に、芸術方面での活躍の場を広げていった。
実はマウンデイは詩人としての名声の方が画家としてよりも高く、ビルマ語と英語で数多くの詩を発表し、数冊の詩集を出している。また、翻訳者としての出版物もある。
意識の断層からスパークする雑多なイメージを消えないうちにこの世に繋ぎ止めるには、確かに言葉なら詩が、絵ならドローイングがふさわしい。しかし、だからこそ、なぜ使い分けるのか。その質問に彼は、迷いなくするっと答えた。
「詩と絵は、私にとっては別物なんです。英語圏で発表する機会の多い詩は、ビルマ語と英語の両方で書くのですが、そのせいかどうしても西洋の文化的な枠の中にとらわれているように感じます。それに対しドローイングはずっと自由です。何ものにも縛られずに、ただただ頭の中に浮かぶイメージを吐き出せるのです」。
The thug nation
75.5×55.25cm
2015
父権なるものへの否定
彼の絵は政治や社会への批判と解釈されることが多い。たとえば「父は私たちを植物に変える」と題されたドローイング。父権的なるものをテーマにしている。
Father turned us into planets 27.6×37.8cm
2014
向かって右に父親、左に母親、そして真ん中に息子が立ち、周囲をシンメトリーの装飾が飾る。これはミャンマーにおける家族写真の典型的な構図だが、ひとつひとつ描かれたアイテムを見て行くと違和感に気づく。父のからだは毛むくじゃらで、母と息子の頭部は木の幹、美麗な装飾と見えたのはムカデで、上部中央部のモチーフにいたっては性交する犬だ。マウンデイはこう解説する。
「獣は悪い存在の象徴です。獣の父親は妻と息子を、もの言えぬ植物に変えてしまったのです」。
平穏な家族に見えて実態はムカデであり、犬のセックスだということか。“父権”は政治とも社会とも置き換えられ、父権なるものすべてを醜いものとして断罪している。
「神よ、一晩中釣りをしましたが何も釣れませんでした」と題されたこちらも、メタファーを散りばめた1枚だ。
Load, I fished all night, but caught nothing
27.6×37.8cm
2011
だれしも心の中に別の人間が棲み、それが漏れ出てしまうものだ。頭の後ろにあるのは、彼の内なる世界を表わす惑星。タイトルも暗示的で、どれほどより良き人間として苦闘しようと、人はもうひとりの内なる自分からは逃れられないのか。おや、左肩と左手指先の光は何を意味するの? 漫画好きだったというから、この印は何かの示唆? マウンデイに問うと、返ってきたのは3秒ほどの沈黙と「意味はわからない。ただ、そのイメージがわいた」という回答。
こちらは彼にしては珍しく、色がついた「公園でキスする人」。
Kissers in the Park 75.5×55.25cm
2015
赤いトゲトゲの物体はバクテリアだという。公園に漂う社会のバクテリアが、純粋に愛し合う恋人たちを徐々に蝕んでいく。なぜこの絵だけは赤い色を使ったのか。彼の答えは再び「わからない」。「2人を見たとき、ただ、真っ赤なバクテリアのイメージが頭に浮かんだのです」と。
最も多く「わからない」という回答を得たのがこちらの「市場」。
The market
75.5×55.25cm
2016
袋をかぶった男、獣男、両足の甲と地面を釘で固定した人々、宙に浮かぶ首のない裸の女たち。ただただ、市場を見ていて湧き出てくるイメージを描き留めたのだという。解釈はいくらでも成り立つ。本音を隠した商人、獲物を狙う悪人、生活に縛り付けられた露店主、搾取される労働者としての女性。しかしここで観るべきは、混沌としたイメージを撒き散らす源である、マウンデイの内なる世界なのではないのか。
社会派とされるアーティストには2つのタイプがある。訴えたいテーマを緻密に計算し構成していくタイプと、考えなしに撒き散らした結果にテーマ性が表れてくるタイプ。後者は、時に本人の意図を超えて政治的、社会的に捉えられることもある。
好青年マウンデイは質問者に饒舌に作品解説をしてくれるが、実は後者のタイプではないのか。彼の解説の中に時々でてくる「わからない」メタファーこそが、言葉ではなく感性で読み解くべき、彼の作品を感じるキーになっている気がしてならない。
白い画面に鉛筆やペンで描いた、簡素でモノトーンなマウンデイの世界。しかしそこから漏れ出る何かは、彼を構成する意識の生々しい断面なのだ。持てる想像力を全て投下して味わう価値のある、内なる世界の縮図だ。
DVD Magazine “Silence is Golden”