Exhibitions
藪本 雄登
Office of Contemporary Art and Culture, Ministry of Culture (OCAC)
Dec 18, 2021 - Mar 31, 2022
会場写真
Thailand Biennale Korat 2021(以下「タイランドビエンナーレ」)は、2021年12月18日から2022年3月まで開催されている。タイランドビエンナーレは、周遊型芸術祭であり、前回はクラビー県で行われたが、今回はタイ東北部イサーン地方への玄関口であるコーンラーチャシーマー県(コラート) で開催されている。
Elias Sime, ightrope: I Burned it, 2021
Tightrope Noiseless8, 2019
会期:2021年12月18日(土)〜2022年3月31日(日)
会場:コラート市内各所(公園、大学、動物園等)、ピーマイ地区(遺跡、博物館等)
アーティスティック・ディレクター:長谷川祐子
共同キュレーター:タワチャイ・ソムコン、ヴィパッシュ・プリチャノン、黒沢聖覇
主催:タイ王国文化省現代芸術文化事務局
公式ホームページ:https://www.thailandbiennale.org/
KEIKEN, Wisdoms for Love 3.0, 2021
assume vivid astro focus, Perimetrava Nail Salon, 2021
ここでは、全体の所感と当財団の「コレクション展「水の越境者(ゾーミ)たち」に出展頂いた Som Supparinya、Ngoc Nau 等の一部作品に焦点をあてて述べることとする。なお、私が訪問した1月15日、16日の段階では完全にオープンしていなかった部分もあるため、全展示を鑑賞しているわけではない点、ご承知頂きたい。
展示は、各公園や時計台等の周辺に設置されているサイトスペシフィックなものと、ピーマイ国立博物館、化石博物館等の室内展示に分かれている。私は、今回、はじめてコラートに来たが、町中には古都の面影が残っており、バンコクから北上すること4時間弱の距離があり、バンコクより気候も穏やかで、とても気に入ってしまった。
Make or Break, Translation Project(rest house), 2021
ピーマイ国立公園内部
Yang Fudong, The Bitterly Slient Nights I Hate, 2021
Rudee Tancharoen, Kan Doenthang, 2021: coexistence, 2018-2021
Montien Boonma, Nature’s Breath:Arokaysala, 1995
Bianca Bondi, The Antechambre (Thai Crane), 2021
「Butterflies Frolicking on the Mud: Engendering Sensible Capital」と銘打たれた展示。タイトルを直訳すると、「泥の上で舞い踊る蝶たち:賢明な資本を生み出していく」といったところだろうか。つまり、私達は、泥に塗れてしまった世界において、解毒の作用を持つ蝶のようにあれるのだろうか。また、マルクスの『資本論』でも蛹(さなぎ)や蝶の例示が出されているので、「資本とは何か?」を考える上で、この点も参照されているのであろう。
サブタイトルの「Sensible Capital」の「Sensible」とは、「分別のある」「思慮のある」「賢明な」「道理にかなった」等を意味する形容詞であり、ここでは物事の判断が適切という意図で「賢明な資本」と表記する。同展示のコンセプトにおいて、宇沢弘文博士の「社会的共通資本」が参照されている。
コンセプト / CONCEPT
Butterflies Frolicking on the Mud:
Engendering Sensible Capital
「社会的共通資本」は、宇沢弘文著『市場・公共・人間』によれば、①大気、水、土壌、森林、河川などの自然資本のみならず、②道路、上下水道、電力、通信等の社会的インフラ、③教育、医療、文化、金融等の制度資本を含む。具体的に何をどこまで含むかは、それぞれの地域や国の自然的、歴史や所得等の経済的な要因などによって異なると述べられている。
社会的共通資本という概念の目的は、市民の基本的権利を充足するために存在している。そのため、こうした社会的共通資本は、社会の共通の財産として、社会的な基準に従って、独立し、公平に管理される必要がある。その基準は、必ずしも国や政府によって規律されたものではないということであり、社会的共通資本を信託する市民と信託される側の「賢明さ(Sensible)」が求められているといえよう。そして、同書において、そのための制度設計は、何かしらの主義、理念を基礎とするより、現実の社会、経済、文化、自然条件等が交錯する中で、柔軟かつ最適なかたちで、具現化されるべきだと記載されている。
私は、タイに居住して長くなった。実感として、タイ社会やタイの人々は、社会的な共通資本やコミュニティといわれるものを、比較的、「重要視する」「大切にする」傾向がある。特に、コミュニティ内の自主的連帯や自然との協調的関係を重視しており、例えば、当事務所においてもスタッフ間のコミュニティや人間関係に害が生じるような外部要因が生じると即時に拒絶反応が返ってくる。
また、その小さなコミュニティの中において、独立した制度設計や運用が機能している場面に直面する。例えば、私は(法律事務所を運営しているので、逆に悩まされることが多いのも事実ではあるが)、農地の買収案件等では、農地の取得は法的にも特殊な手続きが求められていることに加えて、慣習上、農村コミュニティのリーダーといわれる方の許可や立ち会いが求められているような事案がある。これが「賢明か」否かについては別の議論として、これはある種のコミュニティ独自の社会的共通資本を維持するための制度設計や運用が行われているように感じる。
ただ、バンコクの都市化の中で、そのような思想や実践は失われつつあることは間違いない。他方、コラートを含むタイの地方においては、農民文化が色濃く残っているためか、コミュニティを主体とした社会的共通資本を認識、意識できる場面がある。そのため、今回のタイランドビエンナーレのコンセプトをタイの地方で提示することは非常に重要なのではないだろうか。
とはいえ、どうあれば「賢明」といえるのだろうか。これは今回の出展作品からヒントを見出してみよう。なお、私は特に映像作品を専門にコレクションしている関係から、Rajamangla University of Technology Isan 3階で展示されていた作品をメインに取り扱う。
まず、Koichi Sato + Hideki Umezawa の「Ecoes from Clouds, 2021」の展示室に入ると、鴨長明の方丈記の冒頭の文章が飛び込んできた。
ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と
栖とまたかくのごとし。
Koichi Sato + Hideki Umezawa, Ecoes from Clouds, 2021
方丈記は鎌倉時代に書かれた随筆で、枕草子、徒然草と並び、日本三大随筆のひとつに数えられる。鴨長明が生きた時期は、まさに戦乱、地震や飢饉等に見舞われ続けた。そのようなことを契機に、「無常」の境地にたどり着く。仏教思想における無常観は、「変わらないように見えても変化しないものなどなく、すべては常に変化し、やがて滅んでいく」ということだが、都市化の中でこのような思想は見えづらくなってきている。ただ、仏教国のタイ社会において、特に地方では、まだ共感を得られるのではないだろうか。
映像内では、日本の広範囲にわたる送電インフラを追跡しながら、都市に水資源と電気を供給する山岳森林地帯の映像美を提供する。フィールドレコーディングによって再構築されたサウンドからは強い切迫感が示される。また、作品の中で多く登場する霧は、水と送電インフラが「やがて滅んでいく」ことを暗喩しているようだ。滅びゆく中で、鴨長明のように「どう生きるか」ということを賢明に考えていくことが重要なのであろう。
続いて、オーストリア人アーティストの Herwig Scherabon は、大西洋のある火山島に滞在しながら、その地域独自の火山に囲まれた生態系や環境を調査している。デジタル空間上で激しく伸びたり、縮んだり、揺れ動いたり、最終的には抽象化された線体化する映像表現は、パンデミックや火山の噴火等における破壊的な出来事を象徴的に示しているのだろう。展示室の中央には、カプセル化された自立した生態系を含む小さな世界があるが、AR技術によりスマートフォン上で、その世界は拡張される。現実世界の生態系が破壊される中では、虚構の中で生態系を維持し、拡張することしかできないのだろうか。
Herwig Scherabon, Not Really Now Not Anymore, 2021
一番奥の部屋には、ここでは説明不要かもしれないが、「Bitcoin Mining and Field Recordings of Ethnic Minorities」の3面スクリーン作品が展示されており、水力発電所の轟々しい水の音とビットコインマイニングによる轟々しいファンの音が頭から離れない。いつの時代も負荷を背負わせられるのは、政治や国家から切り離された人達なのだろうか。
Chuang Liu, Bitcoin Mining and Field Recordings of Ethnic Minorities
また、タイ人アーティストのSom Supaparinyaの2面スクリーン作品「Two Sides of the Moon」は、夕暮れから日没までの間、船上で仕事をする漁師達のドキュメンタリー作品である。舞台となる「มูน(ムン)川」の「ムン」には、先祖から受け継いだ大事なものを守るという意味があるようだ。ムン川は、生命力に満ちた水と共に生きる人々のコモンズであるとともに、タイ東北地方の最古の神話や信仰の発祥地でもある。冷戦時代に、川沿いに駐留していたアメリカ軍関係者の間で、アンディ・ウィリアムズの「ムーン・リバー」というアメリカのヒット曲の流行もあり、「ムーン・リバー」とも呼称されている。
Som Supaparinya, Two Sides of the Moon
本作品では、Mun Bonダム開発によるムン川の2つの側面に光と闇の部分の両面に焦点をあてる。映像では、コラート上流のダムが稼働した後、小さな川は大きな湖となり、その湖は国立公園の一部となり、豊かな漁業場となっている。他方、ムン川の下流の岩場の漁場は、干上がってしまい漁業が成り立たなくなっている。激変するムン川というコモンズを先祖達は、どのように見ているのだろうか。
最後に、ベトナム人アーティストのNgoc Nau の「The Silent Nights」が美しい光を放っていた。同作は、7つのライトボックス作品であり、1960年代に、米国がベトナム北部に侵攻した際、首都ハノイからタイグエン省に避難した人々の物語を示している。タイ、ベトナム、中国との複雑な歴史的背景を示しながら、蛇や霊から都市や住居、そして、戦争、爆弾、飢餓から鉱山開発、過酷な労働への移り変わりを示している。Ngoc Nauの表現をみると、私達はとても「賢明な」判断をしてきたとはいえなさそうだ。
Ngoc Nau, The Silent Nights
賢明な資本(Sensible Capital)とは、何か?
前述のEchoes from Cloudsにおける表現のように五里霧中の状態だ。ただ、答えを出す必要はない。答えに甘んじないことは、思考を未来に開いていくための必須条件であろう。
前述の通り、社会的共通資本の概念は、市民の基本的権利を充足するために宇沢博士が理論化し、実践してきたものだ。ただ、宇沢博士の実践は挫折の連続でもあった。そこからときを経た今も、ムン川の下流の岩場の漁民達は滅びようとしているし、統治されないゾミア地域の人々ばかりに負荷が課せられている。各地域のコモンズの地盤は確実に崩壊しながら、泥のようになってしまっているのではないだろうか。そう、まさに私達は、泥の中にいるのだろう。
唯一の希望は、コロナ渦によって戻ってきた蝶なのだろうか。コラート動物園で、黄緑色の蝶を見つけた。その蝶は、ヒラヒラと予測不能な動きで、縦横無尽に舞う。私は、気づくと、その蝶をすぐに見失ってしまった。この成長著しいアジアにおいて、私は、もしかすると、直線的な動きに慣れすぎてしまったのだろうか。
さて、コラートの地で、蝶をはじめとする自然、そして、何より作品とともに、「賢明さとは何か」ということについて、もう少し深く考えてみる必要がありそうだ。