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「ゾミア」のアーティスト礼讃

Japan

市原研太郎 (美術評論家)

All images courtesy of the artist and Aura Contemporary Art Foundation

新型コロナのパンデミックと東京オリンピック、それに間違いなく地球温暖化の影響で息苦しくなるほど暑い2021年真夏の日本。その大阪で、一見奇妙なタイトルのヴィデオアートのグループ展が開催されている。

奇妙というのは、タイトルの「水の越境者(ゾーミ)たち -メコン地域の現代アート-」に「ゾーミ」という耳慣れない単語が含まれているからである。
この「ゾーミ」は、「ゾミア」に居住する人々の総称であり、「ゾミア」は、この述語を著書の日本語訳の表題にした政治学者・人類学者ジェームス・C・スコットが、インドシナ半島の5か国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー)と、中国南部の丘陵地帯を指し示す名称として使用している。それら6か国の山地(「ゾミア」)を貫いて流れる河川がメコン川なので、「ゾーミ」とはこのメコン地域に定住する人々、つまり複数の少数民族のことである。

「ゾーミ」が、タイトルにあるように越境者つまり避難民の少数民族であるのは、彼らが上述の国々の抑圧や迫害を逃れて、「ゾミア」へと移住したからである。国家が、ベネディクト・アンダーソンの提起した「想像の共同体」だとすれば、「ゾーミ」が生きる「ゾミア」は、その外部にある〈リアル〉な世界と言えないだろうか?

その意味で、「ゾーミ」は世界的に例外的な環境で生を営んでいる。「ゾミア」が、国家の辺境というより、その支配の及ばない国家の外側に位置しているからだ。しかし「ゾーミ」は、独自の新たな国家を設立しているわけではない。諸国家の外側、つまり国境と国境の間に彼らが居住しているということだ。とはいえ理論上、複数の国境の間に地理的・空間的な隙間はない。「ゾーミ」は、国家の統治の圏外にある地域を選んで彼らの社会を形成しているのである。

以上のような政治的な事情があり、「ゾミア」は国家的な秩序(国家が課す法律や制度)からはみ出す空間、国家の側から見れば無法地帯となっている。この無法地帯が強調されると、「ゾミア」は思想的にアナーキズムと関係づけられたり、その地域の一角に「黄金の三角地帯」と呼ばれる麻薬の密造地があるので、犯罪者たちの巣窟と目されることになる。

だが「ゾミア」は、そのような地政学的な特殊性と、周辺の国家の抑圧から逃れた人間にとって安全な隠れ家を提供すること、また、そこに生活の拠点を置く少数民族(マイノリティ)が生み出す文化的な多様性と豊かさによって、とくにアートの分野で注目されるようになった。

最近、開催されたなかでは、2019年台湾の台中で行われたアジア・アート・トリエンナーレが、「The Strangers from beyond the Mountain and the Sea」とタイトルされた、まさに「ゾミア」をテーマにした展覧会だった。

その展示は、インドシナ半島の丘陵地帯の「ゾミア」と並んで、スコットが言及した「水のゾミア」にもスポットライトが当てられた。「水のゾミア」とは、山ではなく川や海に広がるゾミア的な領域を意味する言葉で、そこでは山と同様、水の「ゾーミ」が活動している。水と言えば、インドシナ半島の最大河川であるメコン川流域で、近年電源開発が盛んになり、とくに中国によるダム建設が行われている。仮想通貨のマイニングに大量の電力が消費され、それを確保するダムの水力発電の供給がその要因だが、それによってメコン川の水資源の分配が不平等になっているとの報道がある。この電源開発の問題を取り上げたリュー・チュアンのマルチスクリーンのヴィデオ作品《Bitcoin Mining and Field Recordings of Ethnic Minorities》(2018年)が、前述のアジア・アート・ビエンナーレに出展されていた。

実は、この河川の開発に関連する作品が、「水の越境者(ゾーミ)たち -メコン地域の現代アート-」展に提示されている。タイのアーティスト、スティラット スパパリンヤーの《おじいちゃんの水路は永遠に塞がれた》(2012年)である。それは、メコン川と同様「ゾミア」に端を発してタイを南北に縦断し、他の支流と合流してチャオプラヤー川になるピン川を舞台に、やはりダムが建造されることで移動と流通の手段を奪われた現実を描き出すヴィデオである。そのダブルスクリーンに映し出されたピン川の様々に移り変わる流れとその滞留(人工湖)に、作者の無言の哀惜の念が込められていて感動的だった。

  • おじいちゃんの水路は永遠に塞がれた / My Grandpa’s Route Has Been Forever Blocked

  • スティラット スパパリンヤー / Supaparinya Sutthirat

さて「水の越境者(ゾーミ)たち -メコン地域の現代アート-」展は、「船場アートサイトプロジェクトVol.01」のプログラムの一つとして、大阪の船場にあるビルで行われている。

しかし、なぜ「ゾミア」と大阪の船場が結びつくのか? その理由となるのが、本展のテーマの「水のゾミア」である。企画者の一人で、全展示作品をコレクションしているAura Contemporary Foundationの代表、藪本雄登氏は、展覧会のステートメントで、「メコンの山岳地帯はメコン川によって肥沃なメコンデルタ、砂州、最後には海に繋がり、そして海によって大阪へと繋がる」と述べる。つまり、インドシナ半島のメコンデルタは、「淀川と大和川によって形成されたデルタ地帯」の大阪(その中心の船場)と結びつくと言うのだ。

したがって、この展覧会は、インドシナ半島の「水の越境者(ゾーミ)」の稀有な物語の発見であると同時に、メコンデルタと大阪のデルタ地帯との文化的な共通性を確認する旅になるだろう。インドシナと日本が直接的に繋がる展示作品は1点だったが。それは、アリン・ルンジャーンの2013年ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるタイ・パビリオン出展作の《黄金の涙滴》(2013年)である。この作品は、空間を美しく彩る金色の涙のオブジェのインスタレーションとセットになった映像である。そのなかにタイ在住の日本人(大阪出身)の女性が登場し、タイの伝統的なお菓子「トーンヨート」を作りながら彼女自身の人生を振り返るシーンが現れる。インドシナで唯一植民地にならなかったタイの複雑な歴史と、思いがけなくも日本とタイの交流の懸け橋となっている彼女のひたむきな生き様が印象的な作品だった。

  • 黄金の涙滴 / Golden Teardrop

  • アリン ルンジャーン / Arin Rungjang

会場には、展覧会の主役であるメコン川を題材にする幾つかの映像作品が投影されていた。カンボジアのクヴァイ・サムナンの《ポピル》(2018年)は、河川を背景に漁業で用いられる蔓で編まれた仮面をつけた二人の人物の絡むダンスが繰り広げられる。この映像を制作したサムナンは、2017年に開催されたドクメンタ14で私が最大の衝撃を受けた《Preah Kunlong(The way of spirit)》(2017年)の作者で、そのときカンボジアにこんな凄いアーティストがいるのかと驚いたのだった。とはいえ、彼は世界的に有名なカンボジアのアーティストラン・スペースのサ・サ・アートプロジェクトのメンバーで、本展には別のメンバーであるリム・ソクチャンリナも参加していた。

  • ポピル / Popil

  • クヴァイ サムナン / Khvay Samnang

2019年のシンガポールビエンナーレに出展されたソクチャンリナの《海への手紙》(2019年)は、川ではなく海を舞台にしてアーティスト本人が登場し、平地からの逃亡者(越境者)である漁業移民の悲劇を語る。それが、海底にいるソクチャンリナから立ち上る気泡となって消えていく。カンボジアからタイに国境を越えて犠牲となった「ゾーミ」の苦しみに満ちた嘆きは地上に伝わらないのか? だが、あるときその気泡は反転してアーティストへと戻っていく。時間が逆転したのだ。「ゾーミ」の悲劇は、アーティストの胸に刻まれ永遠に語り継がれることになるだろう。

  • 海への手紙 / LETTER TO THE SEA

  • リム ソクチャンリナ / Lim Sokchanlina

再びメコン川に戻れば、カンボジアのメッチ・チューレイ&メッチ・スレイラスのメッチ姉妹が、《母なる川》(2020年)においてメコンのデルタ地帯でパフォーマンスをする女性の姿を捉えている。赤く長い織物を身体に巻きつけた彼女は、必死に何かを探し作り出そうともがく(そして、最終的に土を出産する)。その様子がビルの立ち並ぶ都市を背景に映し出されると、失われていくものへの郷愁が湧き上がる。しかも、そこには差し迫った感情がある。急速に近代化される東南アジアの国々で失われるのは自然であり、それが人間による今日の環境破壊の結果であることに警鐘を鳴らしているのだ。それは、パフォーマンスのジェスチャーを通じて明確に表現される。

  • メッチ チョーレイ / Mech Choulay

  • 母なる川 / Mother of River

  • メッチ スレイラス / Mech Sereyrath

タイの人類学者でもあるサマック・コーセムは、 タイの深南部(マレーシアとの国境近く)のイスラム社会を研究の対象にしながら、制作活動をしている。《Sheep》(2017~2018年)では、羊を主題にこの家畜の行動を撮影した。その映像を見ればわかるが、羊は擬人化されていない。人間の譬えではないのだ。羊は羊でしかない。羊が人間に化ける魔術はない。だが、羊に感情移入することはできる。羊が人間ではなく、人間が羊(動物)になるのだ。

  • 羊 / Sheep

  • サマック コ−セム / Samak Kosem

動物(家畜)になった人間は、ラオス出身のスーリヤ・ブミポンが制作したクレイ・アニメ《流れ Vol.1》(2018年)のように、権力の命令に服従するだろう。平地の国家は、それを強要する。現在、メコン地域の国々のほとんどが、そのような強権的あるいは権威主義的国家体制であることを考えれば、余計にその傾向は強まる。そうなると、今後「ゾミア」に逃亡(避難)する人間が増えてくるかもしれない。

  • 流れ Vol.1 / Flow Vol.1

  • スーリヤ ブミポン / Souliya Phoumivong

その際ベトナム人アーティスト、ゴック・ナウの《彼女は欲望のために踊る》(2017年)に登場するスキゾフレニックなデジタル画像の人間が、「逃走の線」を引きつつ国境と国境の間の〈リアル〉な「ゾミア」へと人々を導くことだろう。

  • 彼女は欲望のために踊る / She Dances for Desire

  • ゴック ナウ / Ngoc Nau

最後に、『脱成長』のセルジュ・ラトゥーシュを引用しながら藪本氏が提起したアートの「再魔術化」について、私の意見を述べておきたい。本展で一番魔術的な映像を提示したのは、ミャンマーのマウン・ディの《血花》(2018年)ではないだろうか? ディはあるインタヴューに答えて、シュルレアリスムとコンセプチュアル・アートについて冷静な考察を加えている。彼は、欧米のアートにおける魔術の仕組みを熟知している。つまり、欧米はアートを脱魔術化してモダンアートを創始したが、実はそのなかに魔術的要素(無意識という意識的効用)が残されていた。欧米は魔術から脱出することで、他の地域に先んじてモダンアートの震源になったとはいえ、魔術から完全に解放されたわけではない。それを無理やり否定したことで、その後欧米のアートは衰退し、今や欧米のマジョリティのアーティストから優れた作品が生まれることはなくなった。

  • 血花 / Bloodflowers

  • マウンディ / Maung Day

だから、再魔術化が必要なのだろうか? 私はそうは思わない。マウン・ディが欧米のアートに魔術が潜んでいたことを見抜いたように、非欧米(インドシナや日本)のアートにも魔術があると認めることが重要である(したがって「再魔術化」ではない)。この自覚は、魔術を素朴に信じてそれをアートの原理にするのとは異なる。逆に、アートに魔術的要素があることを知り、それを批判に転用する。ブリュノ・ラトゥールが「物神」について論じたことをもじれば、ディのように〈魔術事実〉崇拝を実践することである。それは、山と水の「ゾミア」のアーティストが魔術という事実を意識することで、現実(平地の国家)を批判する有効な手立てにするのだ。まさに遮蔽された開発の先を見破ることが容易な、ソクチャンリナの《包まれた未来 2》(2019年)の写真に現れる、東南アジアの風景のなかのフェンスのような魔術である。

  • 包まれた未来 2 / WRAPPED FUTURE II

  • リム ソクチャンリナ / Lim Sokchanlina

著者について

市原研太郎
美術評論家。1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『マイク・ケリー "過剰の反美学と疎外の至高性"』(1996年)、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)、『現代アート事典』(共著、2009年)等。現在は、現代アートを総覧することを目的に世界中の現代アートを鑑賞する傍ら、自らのウェブサイトArt-in-Action(http://kentaroichihara.com/)を立ち上げて活動している。

  • 市原研太郎