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アウン・ミャッテー キュレーター・ノート – 呼吸の抽象化 – 「ミャンマー現代アートのメタボリズムを探る」

Myanmar

アウン・ミャッテー (Aung Myat Htay) / 訳:藪本 雄登

何があなたをアーティストたらしめるのか?」
「それは、私にとってそれは呼吸のようなものだ」
-マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramović)- [1]
 
このプロジェクトの原点は、長い間、比較的、平穏だった生まれ変わった国の肉体的、精神的欲求に播種することである。パンデミックや戦争は、私たちが人間であることの警鐘を鳴らしている。それがこのプロジェクトの出発点である。これは、私たちの体の生物学的プロセスである呼吸に直接関連しており、また、文化的歴史、神話、芸術、政治、批判的に複雑な現象の複数の意味において適用することができる。一方、ミャンマーは未だに戦いに直面しており、その知恵と正当性は不正に打ち勝とうとしている。私たちは未来を予測するために、予測不可能な障害と闘っている。私たちは、知恵と共感を切望し、漠然とした困難の中で行動を起こす準備をしているのだ。
 
人から人への出会い、伝統から伝統への邂逅、手法から手法へ、それらは状況を一変させ新しい力を生み出す。それは新しい形に生まれ変わることができる。逆に、双方の本来の性質が、完全に破壊されてしまうこともあり得る。普通の物の変化は、自然の極限、あるいはもっと極端な論理(夢の状態)を超えることができる。生きているものと生きていないものは、生物学的な理論では全く違うものであるが、人間の精神では同じようにそれらに傾倒する。

残された記憶
私たちの記憶の中では、過去の痕跡だけが支配的であることが多い。まだ到来していない未来の記憶を先取りすることは、決して珍しいことではないが、絶えず私たちを悩ませる。メイコ・ナイン(Mayco Naing)の現在進行中のシリーズは、架空に取り上げた記憶のいくつかのイメージを伝えている。彼女の未来の記憶は、最近の空虚な光景(以前は混雑していたヤンゴンの2つの場所)の中で探求され記録されている。未来は憧れと不安の入り混じったものになるのだろうか。今日の無生物は、未来の歴史の化石になるのだろうか。現在は未来の記憶の証拠である。何でもない道や、何でもない建物や、家の中の風景は、常に何かに関連した物語を語っている。それは、現在の記憶の名残として私たちを圧倒するだろう。
 
また、サイ・フチン・リン・ヘット氏(Sai Htin Lin Htet)の「Maya」という独自の写真シリーズは、実生活における独特の記憶や感情を一つのイメージにまとめたものである。「Maya」は、作家の個人的な感情と共感に基づいている。彼は、自分の周りの現実のシーンを、社会政治システムのパラドックス効果に何層も重ねることの例として捉えた。シャン民族の血を引くアーティストであり、キュレーターであり、そして、ソーシャルワーカーとして働く彼は、人権と人間の尊厳の平等を重んじ、その共感を写真で表現している。
 
塩、死後の世界の必需品
カチン族のアーティスト、ブラン・リー(Brang Le)のユニークな作品のひとつに、空中に浮かぶボートがある。
カチン族の伝統的な衣装で飾られた木造のもので、床には積み上げられた塩で白い波が象られている。彼はこう説明する。
 
"塩 "はカチン族の信仰において重要なもので、伝統的な神々に見られる。また、家族の一員が亡くなると、その一員は塩の取引に出航するとも言われている。そのため、キッチンでは塩がなくなる前に常に塩を足している。また、塩は悪霊と戦うことができると信じられており、これは古代カチン族の祖先の信仰でもある」              
 
ミャンマーには、14の主要民族と100以上の少数民族が存在する。カチン州は、中国と国境を接する高地で、氷のように美しい氷河を持つ地域であるが、乱開発の影響により、慢性的な貧困と内戦に悩まされている。この作品は、そんな人々の背景や物語を、魂が航海を続ける小さな船に見立てている。
 
言葉とフォトモンタージュ
ベイ・ベイ(Bay Bay)は、言葉ではなく、彼女が日常生活の中で目にしたものをもとに詩を作ることを試みている。フォトモンタージュの手法が、社会的・政治的意識に関する印刷されたメディアの出版物に反映されている。彼女の作品は、ポップアート、ダダ、そして伝統的なシュールレアリズムの要素を利用した視覚的な物語である。写真はアーティストと周囲との間を通訳する媒体言語であるように、コラージュは一種の断片化された、催眠的でシュールレアリズム的な表現手段であり、複雑な技法なのである。新しい表現媒体を発見することは、オンラインメディアの豊富なビジュアルリソース(視覚資料)として、今日的な新しい世界を探索することを可能にする。さらに、それは彼女にとっては見知らぬ人と友達になることでもある。ドイツ人アーティストのハンナ・ヘッチ(Hannah Höch)は、雑誌や新聞に掲載された写真やテキストを使ってダダのコラージュ作品を制作している[2] 。彼女は、「私はいつも写真を利用しようとしてきた。詩人がその言葉を使うように、私は写真を色のように使う。」と語っている。これは、ベイベイが独学のアーティストとして自分自身を理解し、成長させていることの証左でもある。
 
埃が舞う
音と映像の感情的な共鳴は、時間の記憶を深く呼び起こした。イトー&モエ ミヤット(Ito&Moe Myat)によるメディアアートは、道教における詩的な朗読を集合的に試みたものである。「Freedom of cloud 」は作品のタイトルで、感覚的な集中力に対して新しいオーディオ・ビジュアル体験を提供する内なる静けさへの説教のようなものである。道教は、人生の合理的な調和の概念であり、人生の目的は内面の平和と調和であるとされている。タオ[3]は通常、"道(どう)"  または  "道 (みち)"と訳される。あらゆる分野の基礎理論を超えたアーティストの旅は、既存の輪を超えて新しい領域へと広がっている。そのつながりは、双方にとって新たな遺伝子に成長する可能性がある。現代アートの黎明期には、サウンドアーティストやミュージシャンが、新しい技術や視覚芸術の実験的な試みを行っていた。新しい芸術の形を実験したナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)の発明、音楽からパフォーマンスまでのデジタル技術とアナログ技術の画期的な成果は、メディアアートの先駆的なものであった。ジョン・ケージ(John Cage)は、音楽を概念的協和音で実験的に試み、音楽理論、哲学、サウンド・アートの分野を拡大した。
 
人間と自然
メコン地域と中国の国境に位置するシャン州は、ミャンマーの東側の山にある緑豊かな森林地帯である。シャン州南部の最大都市、タウンジー出身のコー・ソー(Ko So)は、自然や環境に特別な関心を寄せている。彼の作品には、土、水、石、植物などの自然素材が使われており、その中には彼が使ったいつかの空気も含まれている。彼のパフォーマンスは、生態系と人間との関係に焦点を当て、思考と理解を刺激する実践、実験である。植物、水、空気は、アーティスト自身の身体を使ったインスタレーション作品としてデザインされている。人間と植物は酸素や二酸化炭素の基本概念といった、生物学的な循環の中で共存する多くのつながりを持っている。マイケル・マーダー(Michael Marder)著 植物-思考:『植物的生活の哲学』にあるように、「人間であろうとなかろうと有機物であろうと無機物であろうと、私たちがどれだけ自分を他者から隔離しようと思っても、それは不可能であり、植物のように世界にさらされているのだ。[4]
 
肌身離さず
エロティサイズ・ナショナリズム[5]で知られている通り、社会文化的には、ナショナリズムを基礎にアイデンティティを確立し、人間は、宗教、伝統、人種差別、象徴的遺産などのルールによって、現実と虚構の間に立っている。服装は、肉体的な外見よりも、その人の感情的な状態を表している。生まれてから死ぬまで、人々は生命と愛の象徴を励ますために象徴主義的な装いをしている。文化的融合のプロセスは、東西両地域の哲学的な宗教観が織り込まれた人類の欲望から生まれたものである。人間と衣服は、生きているものと生きていないものを繋ぐような無形の組み合わせである。このつながりは、欲望と自らの存在を愛することのハイブリディティ(混成性)である。「The Incineration」は、現在ロンドンを拠点に活動するミャンマー人マルチメディアアーティストのピャエ・フィョ・タットニョ(Pyae Phyo Thant Nyo)と、ポーランド出身でイギリスを拠点に活動するスタイリストであり、時折フォトグラファーとしても活躍するエミリア・ヤビノスカ(Emilia Jabłońska)が共同で制作したパフォーマンスビデオである。衣類を焼却する際、それは急激に燃やされて灰になるが、それを身体に戻すことで、文字通り灰を身にまとうことになる。日本の舞踏をベースにして、社会的不正義、搾取、貧困、そして贅沢品の汚染を強調するという逆説的な行為を行うパフォーマンスである。
 
東南アジアは、人間の形態上に神々の特徴的な姿があるように、宗教や文化の哲学に最も深い関係を持っている。アーティストのルイン・オオ・マウン(Lwin Oo Maung)は、人間のタイプに関する日頃の習慣とタブーとされている行動に関心を寄せている。 彼のパフォーマンス・シリーズは、社会的背景からインスピレーションを得て、動物の頭部像を主なテーマとして使用している。それぞれの生年月日の神話的な象徴は特定の動物のシンボルとして表され、私たちの現実の生活の中で、その動物のように振る舞うのだろうか。
 
このプログラムの目玉として、5人のミャンマー人女性写真家によるグループ、トゥーマ・コレクティブ(Thuma Collective)である。このグループは、女性の目を通した写真作品による内なる思いの詳述と、声を大にする活動に取り組み実践するよう、女性の力を鼓舞し続けている。トゥーマ・コレクティブは、Khin Kyi Htet、Rita Khin、Shwe Wutt Hmon、Tin Htet Paing、Yu Yu Myint Than らで構成され、2017年から国内外のアートシーンで展示を行っている。"The Disclosure "は彼らを有名にしたプロジェクトであり、今日的な着想の架空の物語を伴う美しい写真によって、迷信、個人的な感情、社会文化の問題を女性の視点で捉え直し、究明したのである。
 
モダンでコンセプチュアルなものとして認識されているアジアのアートは、西洋とは異なるイデオロギーや思想を持っている。最近、東南アジアでは改善されているが、ミャンマーでは、表現の自由が制限されている。その中で、西洋の影響を独自に解釈した作品が生まれ続けている。困難な状況であればあるほど、より強い創造性が生まれるのではないだろうか。私は、ミャンマーが現在の政治的・社会的対立の下でも、ここ数十年で多くのアジア諸国が直面している新たな芸術的挑戦とともに、幅広い美的表現に向けて戦い続けることを約束する。
 
2021年5月21日
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[1] https://the-talks.com/interview/marina-abramovic/
[2] https://www.inthein-between.com/hannah-hoch/ 
[3] https://courses.lumenlearning.com/atd-bhcc-introsoc/chapter/1516/ 
[4] Plant-Thinking:A Philosophy of Vegetal Life by MICHAEL MARDER, Columbia University Press, 2013, Ref: https://philosoplant.lareviewofbooks.org/?p=188
[5] https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9780429440359/nationalisms-sexualities-andrew-parker-mary-russo-doris-sommer-patricia-yaeger