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船場アートサイトプロジェクト Vol.01 カンファレンス 「水の越境者(ゾーミ)たち -アジアの共異性を探る-」

Japan

Bloodflowers, Maung Day
Courtesy of the artists Aura Contemporary Art Foundation

登壇者:
モデレーター 宮津 大輔(横浜美術大学学長、森美術館理事)
特別ゲストスピーカー 石倉 敏明(秋田公立美術大学 准教授、芸術人類学者、神話学者)
藪本 雄登(アウラ現代藝術振興財団 代表)
 
総合司会:
鈴木 大輔(株式会社アートローグ 代表取締役CEO)

【1】登壇者紹介

鈴木:
皆様、こんにちは。本日は、「船場アートサイトプロジェクト Vol.1 カンファレンス『水の越境者(ゾーミ)たち -アジアの共異性を探る-』」にご参加いただき、ありがとうございます。私は、本プロジェクトの主催者で「株式会社アートローグ」代表取締役CEOの鈴木と申します。
 
※参考 船場アートサイトプロジェクト
 
早速ですが、カンファレンスを始めさせていただきます。モデレーターの宮津大輔さん、ご登壇者の石倉敏明さん、藪本雄登さん、よろしくお願いいたします。

宮津:
皆様、こんばんは。モデレーターの宮津大輔です。
本日のカンファレンスのタイトルは『水の越境者(ゾーミ)たち -アジアの共異性を探る-』ですが、そもそも、「水の越境者(ゾーミ)とは何か?」や「共異性とは何か?」という疑問があると思います。
展覧会の開催地でもある大阪船場は、四方を水に囲まれている水の都です。今回の展覧会には、アジアの母なる大河・メコン川の流域にあるアーティスト達の作品が出展されています。本日は、アートと水の関係性を探り、文化人類学の観点からアートについて深く掘り下げていければと思っています。
先に展示をご覧になられた方は、展示の内容を頭の中に思い浮かべながらお話を聞いていただきたいと思います。まだ展示をご覧いただけていない方は、ぜひ、本日のカンファレンスで情報を仕入れていただいた上でご覧いただいても、非常に興味深く作品を見られるのではないかと思います。

本日のアジェンダ
 ①登壇者紹介
 ②<対談>はじめに:ゾミア、水のゾミアとは何か?
 ③<対談>メコン流域諸国と日本の共異性とは?
       1 砂州について
       2 龍、蛇、羊等について
       3 魔術、アニミズムについて
 ④<対談>おわりに:アジアから何を発信すべきか?

宮津:
自己紹介の後、まずは「ゾミア」について説明をさせていただきます。続けて、藪本さんから出展アーティストと作品についてご紹介いただき、石倉さんから文化人類学、神話学の観点で作品に対する考察をお話しいただきたいと思います。最後はまとめとして、お二人からコメントを頂きたいと思っています。

モデレーター:宮津 大輔
横浜美術大学学長、森美術館理事
主な研究領域はアートと経済を中心とした社会との関係性。世界的なアジアの現代アートコレクターとしても知られている。本展のアジア出身のアーティストとも関係が深い。
一般企業に勤めながら、収集した400点超のコレクションや、アーティストと共同で建設した自宅は国内外で広く紹介されている。また、美術品の修復保存に関する造詣も深い。
著書:「現代アートを買おう」、「現代アート経済学」「アート×テクノロジーの時代」 その他多数

  • 宮津 大輔

宮津:
それでは、私とご登壇者のお二人から簡単に自己紹介をさせていただきます。
 
改めまして、私は、本日のモデレーターを務めさせていただく、宮津大輔と申します。
今から28年前、30歳のときに現代アートのコレクションを始めました。主にアジア地域のアーティストの映像作品をコレクションしております。作品だけではなく、今回出展するアーティストの方々についてもよく存じ上げていますので、本日は色々なお話ができればと思っています。
 
それでは、まず、文化人類学、神話学を専門とされている、秋田公立美術大学准教授の石倉さん、自己紹介をお願いいたします。

特別ゲストスピーカー:石倉 敏明
秋田公立美術大学美術学部 准教授、芸術人類学者、神話学者 
神話や宗教を専門とし、アーティストとの協働制作を行うなど、人類学と現代芸術を結ぶ独自の活動を展開している。明治大学野生の科学研究所研究員。第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展において、日本館代表作家として、美術家の下道基行、作曲家の安野太郎、建築家の能作文徳らと協働で『Cosmo-Eggs|宇宙の卵』を発表。
共著に『Lexicon 現代人類学』(奥野克巳共編、以文社、2018年)、『動物のことば 根源的暴力を超えて』(鴻池朋子共著、羽鳥書店、2016年)など。

  • 石倉 敏明

石倉:
石倉敏明です。よろしくお願いいたします。
私は文化人類学、神話学を専門としており、以前は、ヒマラヤ山脈の東端にあるシッキム(Sikkim)地方や、インド東北部の都市ダージリン(​​Darjeeling​​)、ネパールで「山の神」の研究をしていました。同時に、日本の東北地方でも民俗調査を続けており、「ユーラシアと環太平洋の比較神話学」というテーマにおいても研究を続けてきました。
 
※参考 山岳信仰とは(コトバンク)
 
2006年、多摩美術大学に「芸術人類学研究所」が設立され、様々なアーティストと一緒に研究を行い、リサーチや作品制作のお手伝いをするようになりました。近年では、色々な方と一緒にお仕事をさせていただいております。また、2019年には「第58回 ヴェネチア・ビエンナーレ 国際美術展」にて、美術家の下道基行さん、作曲家の安野太郎さん、建築家の能作文徳さん、キュレーターの服部浩之さんと共に『Cosmo Eggs|宇宙の卵』という作品を発表いたしました
 
※参考 多摩美術大学 芸術人類学研究所
※参考 
「第58回 ヴェネチア・ビエンナーレ 国際美術展日本館展示帰国展『Cosmo-Eggs|宇宙の卵』をアーティゾン美術館にて開催」(2020年7月15日、国際交流基金)
 
私は東南アジアの専門家でもなければ、現代美術の専門家でもありません。しかしながら、藪本さんがコレクションされている東南アジアの作品群について非常に関心があり、文化人類学と神話学という観点でアート作品を深掘りしていきたいと考えております。また、宮津さんの経済からの視点や、現代美術と世界との関わりという部分も含めて、一緒に考えさせていただければと思います。よろしくお願いいたします。
 
宮津:
石倉さん、ありがとうございました。
続いて、藪本さんから自己紹介をお願いいたします。

藪本 雄登
アウラ現代藝術振興財団 代表
One Asia Lawyers創業者、Artport株式会社代表 紀南アートウィーク総合プロデューサーを務める。
10年以上に渡り、カンボジア、ラオス、ミャンマー、タイ等に居住し、各地のキュレーター、アートコレクティブ、アーティスト等への助成や展示会の支援を行っている。
現在、アジア太平洋地域のアーティストの動画作品を中心に60点を超えるコレクションを保有している。
展示「Silence of Golden」展、「Abstraction of Breathing」展、講演「メコン地域の現代アート」等

  • 藪本 雄登

藪本:
皆様、こんばんは。「アウラ現代藝術振興財団」代表の藪本雄登と申します。
本業として「One Asia Lawyers」という法律事務所を創業、展開しており、大学卒業後からカンボジアやラオス、ミャンマー、タイに住んで、事業を展開してきました。しかしながら、法律関係の仕事を突き詰めれば、突き詰めるほど、詳細は省きますが、世界の平和から遠ざかっているのではないかと感じています。法律の仕事は人間の醜悪な部分がよく垣間見えますが、「醜悪なもの」と「美しいもの」は表裏一体であり、「法律業で稼いだお金は、美しいものに転換していきたい」と考えるようになりました。本日のカンファレンスでもご紹介させていただく、カンボジアの「サ・サ・アートプロジェクト/Sa Sa Art Projects」のメンバーにいざなわれ、その後、現代アートの世界にどっぷり入り込んでいったという次第です。
 
※参考 アウラ現代藝術振興財団
※参考 
One Asia Lawyers
※参考 
鈴木一絵、藪本雄登「カンボジア 現代アート概説」(Aura Asia Contemporary Art Project)
 
今回、「ゾミア」という言葉が登場しますが、実はこの言葉については、3ヶ月前ぐらいに石倉さんから教えていただいたばかりです。ふと振り返ると、当財団のコレクションは「ゾミア的」、「アニミズム的」な要素に溢れていることに気づきました。今回、株式会社アートローグ様から当財団のコレクション展のお話を頂いた際に、「ゾミア」をテーマにした企画を行いたいと考え、文献を読み漁りました。今回、「論考」も執筆しましたので、ぜひご一読いただきたいと思っています。
 
※参考 藪本雄登「論考: 水の越境者(ゾーミ)たち -大阪、ゾミア、船場資本主義とグローバリゼーション-」(Aura Asia Contemporary Art Project)

【2】はじめに:ゾミア/Zomiaとは何か?

  • 出典:東洋文化研究所ホームページより
    http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/pub131031.html

  • 出典:Wikipedia「ゾミア」より
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%9F%E3%82%A2

宮津:
それでは早速、本日の本題に入っていきたいと思います。まず、「ゾミア」という言葉にはどのような意味があるのか、石倉さんからご説明いただけますでしょうか?
 
ゾミアの意味
 
石倉:
「ゾミア/Zomia」は、チベット語、ビルマ語に由来しています。チベット・ビルマ語圏では「高地に住んでいる人」を「ゾーミ/Zomi」と呼ぶのですが、ゾミアはより広い意味を持ち、「山岳地帯のアジール※1に逃げ込んで、生きていた人たち」のことを意味します。
 
※1 犯罪人や奴隷などが、過酷な侵害や報復から免れるために逃げ込んで保護を受ける場所のこと。 アジールとは(コトバンク)
 
ゾミアという概念は、アメリカの人類学者、ジェームズ・スコット(James C. Scott)が発表しています。2009年刊行の彼の著書『The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia』(日本語訳版は『ゾミア――脱国家の世界史』、2013年発売)が基礎になっています。著書の中では「国家(Nation)に組み込まれずに、人間がどのように社会を作って生きていけるのか」ということが語られています。
 
※参考 ジェームズ・C. スコットとは(コトバンク)
 
スコットの研究領域は、東南アジアのインドシナ半島の高地です。元々、イギリスの人類学者、エドマンド・リーチ(​​​​Edmund Ronald Leach)が高地ビルマの研究をしていました。その後、スコットの研究が世に広まり、「山地の人々は国家から取り残されていて、遅れている」というイメージを覆すような「社会情勢や勢力関係を柔軟にコントロールしながら、国家に組み込まれないような生き方を選択してきた」という像が見え始めてきました。
 
※参考 エドマンド・ロナルド リーチとは(コトバンク)
 

また、スコットの著書において、インパクトがあるのは、ゾミアという概念を定義し、掘り下げただけではありません。彼は「原始的な民族が、独自の生活習慣を選ぶことで国家による束縛を逃れている」という論を展開しました。例えば、焼畑を行い、根菜類を植え、水田耕作をしない。他にも、文字を使わずに口承で重要な歴史を伝えているといった習慣があります。新大陸の植民地における黒人逃亡奴隷「マルーン(maroon)」や、ヨーロッパの少数民族「ロマ(Roma)」、ロシアの軍事的共同体「コサック(козак)」のような、国家の統治、いわゆる税制や兵役などから逃れていった人たちの歴史と、ゾミアの生き方は共鳴するのではないか。スコットはそのように考え、とても刺激的な論を展開しているのです。
 
※参考 シマロン(マルーン)とは(コトバンク)
※参考 
ロマとは(コトバンク)
※参考 
コサックとは(コトバンク)
 
最近、日本では「水のゾミア(Watery Zomia)」や「海のゾミア(Sea Zomia)」という形で、日本の海の港域に当てはめる議論が出てきています。本日のテーマと関わってくる部分だと思いますが、ゾミアは山だけではなく、海や川のような「水」の周りにも存在するのだという考え方です。
以前、藪本さんと、ゾミアのような国家という枠組みでは捉えきれない人たちを発掘し、世界に広めていく必要があるのではないかという話をしました。彼ら独自の世界で生み出された生存技術であり、国家単位では切り取ることの難しい概念、あり方がアートの中で表象されています。これらを現代で取り出すことができれば、今のグローバル経済に関する問題から脱却し、ローカルを掘り下げることに特化したアートの世界が発展していくのではないかと思います。
 
メコン流域諸国とは?

  • 「メコン河が流れる国々(2ページ目)」(『ともに未来へ、日本とメコン』、2019年3月27日発行、1-12p)
    出典:「パンフレット・リーフレット:ともに未来へ、日本とメコン」(2019年3月27日、外務省ホームページ)

  • 「メコン川沿いの雄大な景色」
    (メコン川は「チベット高原を源流に4200kmの長さを誇る国際河川」である。「流域人口は15億4000万人を数え多くの恵みをもたらして」いる。)
    出典:SingaLife編集部「悠久のメコン川を行く絶景クルーズ1泊2日-世界の旅vol.165-」(2020年1月9日、SingaLife)

宮津:
先ほどの石倉さんのお話の中でのキーポイントは、「国家の支配」あるいは「国家という枠組みにとらわれない」という部分です。本日のカンファレンスのタイトルにもある「水の越境者(ゾーミ)たち」は、まさに「海のゾミア」や「川のゾミア」であり、今回、取り上げるメコン川流域におけるゾミアのことを指しています。
 
続けて、コレクション展に出展されているアーティスト及び作品について、藪本さんから順番にご紹介いただいてもよろしいでしょうか?

ゴック・ナウ(Ngoc Nau)の作品

  • Ngoc Nau

  • She dances for desire

藪本:
今回のコレクション展では、メコン地域から国際展で活躍する10名のアーティストを招聘しました。
 
まず、ベトナム人のアーティスト、ゴック・ナウ(Ngoc Nau)をご紹介します。彼女はまさに、山のゾミアの系譜のあるアーティストで、ベトナム北部の山間で暮らす少数民族「キン族」を祖先に持っています。現在、彼女は、ベトナム南部のホーチミン市で活動しており、祝祭的な音楽と共に行われるベトナムの聖母道における宗教的儀式である「レンドン(Leng Dong)」を取り上げ、『She Dances for Desire/彼女は欲望のために踊る』という作品で表現しています。まさに、アジアの伝統と革新の中でせめぎ合う緊張関係をよく表している作品ではないかと考えています。
 
※参考 キン族とは(コトバンク)
※参考 
「ベトナムの伝統信仰『マウタムフー(母三府)』、 ユネスコ無形文化遺産、信念と願望」(2017年1月17日、Báo Ảnh Việt Nam)
※参考 
Ngoc Nau/ゴック・ナウ『She Dances for Desire/彼女は欲望のために踊る』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Ngoc Nau『She Dances for Desire』(Aura Asia Contemporary Art Project)

  • Saigon

  • Saigon

藪本:
また、当財団では、ゴック・ナウの作品をもう1点コレクションしています。こちらの『Ninh Binh-Saigon/ニンビン-サイゴン』という作品です。ゴック・ナウの曾祖父が主人公です。1950年代に起こった農地改革によって起こった、ベトナム北部のニンビンからホーチミン市(サイゴン)への強制移住の歴史を示す物語です。こちらの作品からも分かるように、ゾミアには、移動の歴史、難民の歴史が密接不可分に存在しています。
 
※参考 高橋塁「南北ベトナムにおける農業の展開 : 農業停滞期再考」(『東海大学紀要 政治経済学部』、2013年9月30日、Vol.45、p.87-116、東海大学 政治経済学部)
※参考 
Ngoc Nau/ゴック・ナウ『Ninh Binh – Saigon/ニンビン – サイゴン』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Ngoc Nau『Ninh Binh – Saigon』(Aura Asia Contemporary Art Project)

【3】アジアの共異性とは? - 砂州について -

リム・ソクチャンリナ(Lim Sokchanlina)の作品

  • Lim Sokchanlina

  • Letter to the Sea

藪本:
今回、海や川、砂州といった「水」が非常に重要なトピックになっています。「大阪は海底から生まれたのではないか?」ということを「論考」でも示させていただいております
 
※参考 藪本雄登「論考: 水の越境者(ゾーミ)たち -大阪、ゾミア、船場資本主義とグローバリゼーション-」(Aura Asia Contemporary Art Project)
 
まず、海底からですが、リム・ソクチャンリナ(Lim Sokchanlina)は、「シンガポール・ビエンナーレ2019」にも出展していたアーティストです。『Letter to the Sea/海への手紙』という作品は、カンボジアとタイの海境で、海中に潜って身体的な負荷を受けながら、声なき声を海の精霊に読み上げる作品になっています
 
※参考 Singapore Biennale 2019: Every Step in the Right Direction
※参考 
「『シンガポール・ビエンナーレ2019』がスタート。東南アジアの現代美術が示す『正しい方向(Right Direction)』とは?」(2019年11月30日、美術手帖)
※参考 
Lim Sokchanlina/リム・ソクチャンリナ『LETTER TO THE SEA/海への手紙』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Lim Sokchanlina『LETTER TO THE SEA』(Aura Asia Contemporary Art Project)

メッチ・チューレイ(Mech Choulay)&メッチ・スレイラス(Mech Sereyrath)の作品

  • Mech Choulay

  • Mother of River

  • Mech Sereyrath

  • Mother of River

藪本:
続いて、川の作品ですが、メッチ・チューレイ(Mech Choulay)とメッチ・スレイラス(Mech Sereyrath)です。彼女たちは姉妹ユニットのアーティストです。1999年に生まれた、カンボジアの若手の期待される現代アーティストで、前述のリム、後述するサムナン、Lyno Vuth(リノ・ブット)が創立したサ・サ・アートプロジェクト(Sa Sa Art Projects)の卒業生でもあります
 
※参考 Aya Kimura, translated by AURA Art「Lim Sokchanlina – Communicate as it is Fusion of reality and unreality」(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Aya Kimura, translated by AURA Art「Khvay Samnang – Artist of Acting:Turning Art into an Entertainment – through his variety of works」(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Aya Kimura, translated by AURA Art「Vuth Lyno:Ten Years of Supporting Contemporary Art in Cambodia」(Aura Asia Contemporary Art Project)
 
彼女たちが制作した『Mother of River/母なる川』という作品では、赤い布で覆われた化け物のようなものが川を彷徨う様子が表現されています。最終的に、その化け物は川底の泥を貪り食い、妊娠した女性のように腹の中を命が巡り、泥の塊として赤子を吐き出します。水に濡れた赤い布は血を想起させ、その血がメコン川、あるいはカンボジア西部のトンレサップ湖に流れているように見えます。
 
※参考 Mech Choulay/メッチ・チューレイ、Mech Sereyrath/メッチ・スレイラス『Mother of River/母なる川』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Mech Choulay and Mech Sereyrath『Mother of River』(Aura Asia Contemporary Art Project)

スティラット・スパパリンヤー(Supaparinya Sutthirat)の作品

  • Supaparinya Sutthirat

  • My Grandpa’s Route Has Been Forever Blocked

藪本:
もう一点、川の作品ですが、スティラット・スパパリンヤー(Supaparinya Sutthirat)、通称「ソム(Som)」と呼ばれる、タイの現代アーティストです。『My Grandpa's Route Has Been Forever Blocked/おじいちゃんの水路は永遠に塞がれた』という作品は、2017年開催の「サンシャワー」展で展示されました。作品の舞台はタイの北部で、水辺を中心に映像が流れていきます。ソムの祖父は、かつてタイの北西部で流れていたピン川を利用した「チーク材※2」の運搬事業者として働いていました。タイ北部には、観光客で非常に賑わう多目的ダム「プミポン・ダム」がありますが、現在、ピン川はダムによってせき止められています。そういう意味では、コレクション展の会場でもある大阪、淀川や大和川などでも水路変更の歴史があるので※、この問題は普遍的な社会問題として受け止めることができるのではないかと感じています。
 
※2 チークの木から切り出された材木。材質は非常に堅強で、加工しやすい。 チークとは(コトバンク)
※参考 
ASEAN設立50周年記念 サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで(森美術館)
※参考 
Supaparinya Sutthirat/スティラット・スパパリンヤー『My Grandpa's Route Has Been Forever Blocked/おじいちゃんの水路は永遠に塞がれた』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
「第30話 中甚兵衛(1639-1730年)」(「ここまで知らなかった! なにわ大坂をつくった100人:足跡を訪ねて」、公益財団法人 関西・大阪21世紀協会)
 
マウン・ディ(Maung Day)の作品

  • Maung Day

  • Bloodflowers

藪本:
最後に、マウン・ディ(Maung Day)は、非常に注目されているミャンマーの若手アーティストの1人です。現在のミャンマーの状況を鑑みて、少し暴力的な作品を1点だけ、今回の展示の中に組み加えました。
彼は農民出身の詩人で、普段は、静かな農民の風景を作品の中で表現しています。しかしながら、この映像作品『Bloodflowers/血花』では、「豚の感染症」や「少女の殺害」を意味するような詩中が登場しており、開発によって村の人々の心が変化していく様が表れています。農民社会は、砂州の無縁な世界とは対をなす、有縁の世界だと思います。この映像作品の中で登場する「繋がれた船」は「有縁の世界」を意味し、有縁の世界からの離脱、脱出の難しさを提示していると思います。
 
※参考 Maung Day/マウン・ディ『Bloodflowers/血花』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Maung Day『Bloodflowers』(Aura Asia Contemporary Art Project)
 
以上が、「ゾミア」と「水」に関係するアーティストと作品の紹介になります。
 
宮津:
藪本さん、ありがとうございました。出展アーティストと作品をご紹介いただきましたが、私から数点、フォローをさせていただきます。
 
まず、リム・ソクチャンリナの『Letter to the Sea/海への手紙』についてです。過去に私は、カンボジアの彼のスタジオに訪れ、彼から話を聞いたことがあります。かつてカンボジアでは「働き口を紹介するから」と、貧しい地域の男性を騙して攫い、タイとカンボジアの海の国境のような場所で彼らに不法労働や密漁をさせていたという実態がありました。休みも与えられず、狭い部屋に住まわされた男性の中には、海で命を落とした人や栄養失調などで亡くなった人もいる。そのような話が、最近になって分かってきました。
『Letter to the Sea/海への手紙』という作品はまさに、リム・ソクチャンリナ自身が、海で亡くなった同胞たちを悼んだ詩なのです。「国家のあり方」が、歪な形で被害者を生んでいるという悲しい現実があります。
 
また、スティラット・スパパリンヤーの『My Grandpa's Route Has Been Forever Blocked/おじいちゃんの水路は永遠に塞がれた』という作品についてです。海外でこの作品が展示された際に彼女から話を聞いたのですが、ダムや川の流域開発が起こったのは、中国の「一帯一路」が原因ではないかということでした。かつて、ゾミアたちが様々な営みを行っていたところに、巨大な中国資本がやってきて、川を人工的にせき止めたり変えていったりしたそうです。彼女はこの件について「経済による新しい植民地化や帝国主義に近いのではないか」と語っていました。まさに「国という概念と後期資本主義が結びつき、昔から長く続くゾミアの生活様式や生きる領域を侵していく」という実例が、視覚芸術表現を通じて作品化されているように思います。
 
※参考 一帯一路とは(コトバンク)
 
「水」の捉え方
 
宮津:
ここまで「水のゾミア」に関係するアーティストと作品の紹介をさせていただきました。続いて、ゾミアという観点から見る、石倉さんのお考えをお聞かせください。
 
石倉:
ゾミアは「山」と「国家」という視点から語られることも多いのですが、近年、とても大きな展開を見せているのが、治水や利水の状況です。東南アジアでは水が非常に重要で、今後の国家の課題は「水をどのように管理していくのか」ということだと言えます。
 
1980年代頃、タイの建築家、スメート・ジュムサイ(Sumet Jumsai)が『Naga : cultural origins in Siam and the West Pacific』(日本語版は『水の神 ナーガ:アジアの水辺空間と文化』、1992年発売)という本を発表しました。
 
ジュムサイはバックミンスター・フラー(R. Buckminster Fuller)の弟子で、川の埋め立てやダムの建設という「利水的な文明」ではなく、親水的、つまり、水に親しんでいく文明を推奨していました。例えば、洪水が起きても家屋が水に浮かぶという、船の構造と家の構造が一体化したような設計方法を考案しています。
水のゾミア、海のゾミアのように、水を住処として生きている人々が昔から存在している。そのような点を考慮した際に、文明の近代的な転換期という状況の中で、国家がゾミアたちを管理していくとなると、今までの伝統が失われてしまう可能性があります。
かつて、ゾミアたちは、国家の外に出るために海や川を越えようとしていました。このように、水という存在は「人と人を繋ぎ、あるいは離す」という力があり、非常にシンボリックな意味合いを持つのではないでしょうか。
 
※参考 バックミンスター・フラー展(愛知県美術館)
 
先ほどご紹介いただいた作品の中で、まず、リム・ソクチャンリナの作品と、スティラット・スパパリンヤーの作品について言及します。彼らの作品は「近代が何をもたらしたのか」ということを可視化してくれるようなものだと思っています。両者ともに、水を扱っていますが、日本でも同じような問題があるということを気づかせてくれるような作品なのではないでしょうか。
日本でも、水と共生してきたという歴史があります。ダムを建設し治水を進める運動や、国家が国境を管理して、労働者を投機していくという運動があり、人間の管理と水の管理が同時に行われていました。しかし、現在でも、管理という枠組みを大きく外れた「隷属的」な手法、いわゆる、人間性という観点で非常に重要な問題がアジアに残っています。だからこそ、メコンのアーティストたちの作品を見た人から共感が生まれるのだと思います。
 
そして、もう1点、ゴック・ナウの作品。彼女の作品の中に登場するベトナムの降霊儀礼「レンドン」は霊を降ろして踊るというものですが、非常に神秘的です。元々、ベトナムが植民地化される以前は、キリスト教や仏教の影響もあって「聖母信仰」のように、様々な母神や女神の信仰がありました。映像作品の中に登場させている「女性が踊るという儀礼」は、デジタル化された身体の動きとして、感覚的にも非常に新しいものだと思います。また、古い歴史を背負っているという「誘導する身体としての女性性」も表現されており、昔からゾミアと関係の深い海や川など、広い意味での「水の文化」との関連性があるようにも思えます。
 
宮津:
石倉さんが仰っていた女神信仰については、アジアだけではなく、西洋にもありますね。例えば、船の舳先(へさき)に女神が付いており、聖母信仰と安全祈願が込められています。つまり、「女性」と「水」には、昔から大きな関係があると言えるのではないでしょうか。
 
藪本:
ゴック・ナウの『Ninh Binh – Saigon/ニンビン-サイゴン』では、まさに船の舳先に女神が設置されていますね。

出典:
Ngoc Nau/ゴック・ナウ『Ninh Binh – Saigon/ニンビン – サイゴン』(Aura Asia Contemporary Art Project)

  • Saigon

【4】アジアの共異性とは? -②龍、蛇、羊等について-

龍、蛇、羊とは何か?
宮津:
石倉さんからご紹介いただいた「水の神 ナーガ」に関係する話で言うと、実は、カンボジアのクメール文化が栄えている場所に、ナーガという蛇の神様がいます。また、中国や東アジアでは、蛇から変化した龍のようなものが存在していると考えられています。
 
※参考 クメール、クメール文化とは(コトバンク)
 
スライドに「蛇、龍、羊とは何か?」とあるように、今度は、アート作品の中に登場する動物を読み解くことで「共異性」に迫っていきたいと思います。まずは、藪本さんから、色々な動物をモチーフにしている作品と、それらを制作したアーティストについて、簡単にご説明いただいてもよろしいでしょうか?

スーリヤ・プミポン(Souliya Phumivong)の作品

  • Souliya Phoumivong

  • Flow Vol.1

藪本:
メコン流域諸国のアーティストたちの作品には、動物が非常によく登場します。今回の出展アーティストで、ラオスで恐らく唯一の映像作品を制作しているスーリヤ・プミポン(Souliya Phumivong)です。『FLOW/流れ』という作品は、緩やかで優しい印象のあるアニメーション作品ですが、ゆっくり進む水牛たちの中に人間が混ざっていくという構成になっています。動物と人間との時間のスピードの違いを描き、それが動物たちをどう傷つけているのかが知覚できる作品です。また、「人」と「動物」の関係性をユーモラス溢れるかたちで表現しています。
 
※参考 Souliya Phumivong/スーリヤ・プミポン『Flow/流れ』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Souliya Phumivong『Flow』(Aura Asia Contemporary Art Project)
 
サマック・コーセム(Samak Kosem)の作品

  • Samak Kosem

  • Sheep

藪本:
続いて、文化人類学者であり現代アーティストでもある、サマック・コーセム(Samak Kosem)です。この写真では非常に怖い顔をしているのですが(笑)、彼自身は非常に優しいお兄ちゃん的な存在です。彼は、タイ南部のパタニー出身で、パタニーで精力的に活動しています。基本的にタイは仏教国なのですが、タイ南部に存在するムスリム社会に目を向けた「クィア・スタディーズ」を行っています。まさに、国や宗教、性などを隔てる社会に目を向けた作品を多く制作しています。
 
※参考 パタニーとは(コトバンク)
※参考 
「軽率な言葉で他者を傷つけないために 性の多様性をひもとく『クィア・スタディーズ』を知る」(2017年4月24日、早稲田ウィークリー)
 
『Sheep/羊』というタイトルの通り、今回の作品には羊が登場します。彼は、パタニーの羊を3ヶ月間に渡って撮影し続け、宗教やマイノリティーとしての「羊とは何か?」ということを作品の中で表現しています。映像作品の最後には、羊たちが窓を飛び出していくシーンがあるのですが、これはある種の解放や越境、避難など、ポジティブな意味での行動だと感じたので、今回のコレクション展の最後にこの作品を配置しました。
 
※参考 Samak Kosem/サマック・コーセム『Sheep/羊』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Samak Kosem『Sheep』(Aura Asia Contemporary Art Project)
 

ソーユーネ(Soe Yu Nwe)、ルイン・オーマウン(Lwin Oo Maung)の作品

  • 写真: Soe Yu Nwe アウラ現代藝術振興財団ホームページより

  • 写真: Life Beyond Boundaries (The Geography of Belonging) より

藪本:
その他、ミャンマーの美しい蛇の作品についても、少しだけご紹介いたします。ミャンマーの期待される若手アーティストの一人であるソーユーヌエ(Soe Yu Nwe)の蛇の彫刻作品は本当に美しいです
 
※参考 板坂真季「体内からとめどなく伸びる生の触手。自身の内面に向き合うソーユーヌエの世界」(Aura Asia  Contemporary Art Project)
※参考 
Maki Itasaka, translated by AURA Art「A raw tentacle stretching from inner body – Soe Yu Nwe; facing her own inner world」(Aura Asia Contemporary Art Project)

  • Lwin Oo Maung

  • Lwin Oo Maung's work

また、ミャンマーには「八曜日占い」というものがあり、虎やライオンなど、8種類の動物が登場します。ミャンマーのアーティスト、ルイン・オーマウン(Lwin Oo Maung)は、この8種類の動物たちを模した仮面を被った人間を登場させるという、非常に興味深い作品を制作し、発表しています
 
※参考 新町智哉「ミャンマーの相性診断は血液型より八曜日?」(2021年5月4日、World Voice:ニューズウィーク日本版)
※参考 
アウラ現代藝術振興財団「ルイン・オオ・マウン(Lwin Oo Maung)/ アーティスト インタビュー – 呼吸の抽象化」(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Aura Contemporary Art Foundation「Lwin Oo Maung / Artist Interview – Abstraction of Breathing」(Aura Asia  Contemporary Art Project)

チュオン・コン・トゥン(Truong Cong Tung)の作品

  • Across the Forest

  • Across the Forest

藪本:
最後に、動物だけではなく、虫が登場する作品もあります。当財団で最近コレクションした、『Across the Forest/森を抜けて』という作品があります。ベトナム人アーティストのチュオン・コン・トゥン(Truong Cong Tung)は、私が個人的に非常に注目しているアーティストの1人です。彼が制作した4つの動画作品では、虫が飛び交う描写が特徴的なのですが、まさに、日本でいう「虫送り※3」のようなものを表現しているのではないかと思います。
 
※3 稲の害虫を村外に追放する、呪術的な行事のこと。 虫送りとは(コトバンク)
※参考 Truong Cong Tung/チュオン・コン・トゥン『Across the Forest/森を抜けて』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Truong Cong Tung『Across the Forest』(Aura Asia Contemporary Art Project)

クゥワイ・サムナン(Khvay Samnang)の作品

  • Popil

  • Popil

藪本:
今回のコレクション展の中で非常に重要な作品の1つが、クゥワイ・サムナン(Khvay Samnang)の作品です。彼は、カンボジアで最も有名なアーティストの1人です。『Popil/ポピル』という作品では、クメール舞踊を踊る2人のダンサーが登場し、彼らは漁をするときに使う蔓(つる)で編まれた、龍を象徴するマスクを被っています。山の中から始まり、川、湿地、砂州へと徐々に場面が変化していきます。
 
※参考 Khvay Samnang/クゥワイ・サムナン『Popil/ポピル』(Aura Asia Contemporary Art Project)
※参考 
Khvay Samnang『Popil』(Aura Asia Contemporary Art Project)

  • 「アンコールワットの壁画に描かれているアプサラ」
    (アプサラは「インド神話『乳海攪拌』の中で誕生したと言われる天女」のこと。アプサラを表現した舞踊「アプサラダンス」は、「カンボジアの古典舞踊の代表的な演目」となっている。)
    出典:「(日本語) NyoNyum105号特集:①時空を超えて受け継がれる天女の舞」(2020年3月5日、NyoNyum)

「ポピル」は、カンボジアの神話や寓話の中に登場し、現在では、カンボジアの一部の人たちの宗教儀式として使われているものです。ポピル自体は、「生命の循環」や「輪廻転生」のようなものを表現しており、実際の宗教儀式ではロウソクを持ってこの舞を踊るそうです。また、ロウソクは男性器、ポピルは女性器だと言われているのですが、神聖な性行為に基く生命の循環を示す作品ではないかと思います。
 
以上が、動物が登場する作品とアーティストの紹介になります。
 
宮津:
藪本さん、ありがとうございました。国や地域ごとに、象徴となる動物が違っているということがよく分かりました。
 
先ほどのサマック・コーセムについて、少し言及します。彼はタイ南部で活動をしているということで、藪本さんからもタイの宗教の話が出ていました。タイは最大の仏教国で、ほとんどの国民が仏教徒です。南部には少数のイスラム教徒が住んでいますが、その中には、タイの国境を越えて、周辺の国々に移り住んでいる教徒もいます。こちらは、最近問題になっているミャンマーの「ロヒンギャ※4」に近い部分があるように思えます。
 
※4 主に、ミャンマー連邦共和国の西沿岸部にあたる、ラカイン州の北西部に住むイスラム系少数民族のこと。 ロヒンギャとは(コトバンク)
 
また、サマック・コーセムのクィア・スタディーズに関してですが、仏教国タイで差別されているイスラム教徒の中でも、同性愛者がまた更に差別されているという状況に懸念を示し、制作を続けています。まさに、差別が差別を生んでいるのですが、サマック・コーセムは自身の作品の中で動物を用いて、このような問題を提起しているのではないかと思います。
 
「羊」のイメージ
 
宮津:
それでは、石倉さん。動物が登場する作品について、文化人類学、神話学の視点からお話をお願いできますでしょうか?
 
石倉:
私からは、サマック・コーセムの作品に登場する「羊」を取り上げてお話ししたいと思います。羊は、古くから宗教における比喩表現として多く用いられていました。例えば、キリスト教では絵画のモチーフとして頻繁に羊が描かれており、これは、敬虔なキリスト教徒を表現しています。さらに、キリスト教徒だけではなく「一神教の神に付き従う者」という、牧畜社会の主体のあり方や、人間の信仰心のあり方を示しているとも考えられます。
また、サマック・コーセムは羊を用いて、「異質なものとして扱われている側の視点」を、作品の中で非常に生々しく描写しています。群れから外れた、あるいは傷を負った羊を登場させることで、従順な羊ではなく、迷って道を外れてしまうかもしれないという「個としての羊の脆弱さ」を表現しているのではないでしょうか。
 
羊は宗教的なイメージだけではなく、家畜としてのイメージも強いと思います。特に、山羊と羊は、紀元前7,000年頃に西アジアで家畜化されており、世界史上で最も古い家畜動物の一つだと言われています。そもそも、羊を家畜として人間が利用するためには、人間の集落の近くで羊たちを飼わなければいけません。その上、人間が何らかの事情で集落を移動した際には、羊たちにも自発的に従ってもらう必要があります。羊たちが「自発的に従わないと生きていくことができない」という状況は、人間社会における「国家の起源」や「統治のあり方」と深く関わっています。そのような意味では、羊は「国家に従わざるを得なかった人々」を表していると言えます。その一方で、国家の統治から逃れ、国境を越えてノマドの世界に入っていくという「国境を越えた者としての牧畜民」というイメージも生まれている気がします。
 
世界では、羊に限らず、様々な哺乳類を山間部で放牧して飼育している人々が多くいますが、日本ではそこまで多くありません。その理由は「家畜を管理することに慣れていないから」だと考えられます。日本ではかつて、狩猟採集を通して野生動物を狩っていた時代がありましたが、家畜の飼育は農耕や牧畜、あるいは移動や狩猟といった目的に限定されていました。牧畜による食肉のための家畜の管理は、基本的には明治時代まで行われていなかったという史実があります。
 
また、羊とは違って、蛇、虫や龍といった他の動物は家畜化できません。例えば、蛇は野生そのものであり、人間の世界とは異なる別の世界の生き物だと考えられます。蛇は、世界で様々なシンボルとして扱われてきた最も古い動物の1つだと思いますが、実は、東南アジアや東アジアで最も頻繁に登場する、大地や水に関係する精霊のイメージも持っています。
まさに「ナーガ」という言葉が、蛇と最も深く結びついています。東南アジアの神話では「ガルーダ」というインド神話の鳥と敵対するものとして、「天と水」あるいは「天と地」を統合する神として、ナーガが登場します。東南アジアで蛇だったものが、中国では龍になり、天地水界全てを統べる巨大な精霊や怪物として現れたようです。
 
※参考 ガルーダとは(コトバンク)
 
歴史的にはナーガの方が先に存在しており、後から龍が誕生したという流れがあります。先ほど、藪本さんからご紹介いただいたアーティストの方々は、動物のイメージを上手く捉え、多層的な描き方をしているように思います。例えば、旧石器時代の頃の蛇や、中国の大文明圏の影響を受けて表れた龍、農業という営みの中で敵対視されてきた虫などです。また、人間のアイデンティティーの問題として、信心や従順性、あるいは、それらから逸脱する脆弱性を孕んだ羊も描かれていますね。
 
ただ、気をつけなければいけないのは、ヨーロッパでは一般的に「神と動物の間に人間がいる」という垂直的な位置づけが強いということです。最近、動物を題材にしたアート作品は増えていますが、「動物を人間化する」という扱い方をするアーティストも多いように思います。しかし、東南アジアのアーティストは、元から動物を人間と同じような存在として、あるいは隣人のような存在として扱っているという特徴があるように、私には感じられます。人間が住んでいる領域のすぐ近くに動物がいるのだと、彼らはそう考えているような気がしますね。
 
欧米とアジアを比較した「人間と動物のあり方」
 
宮津:
石倉さんが仰ったように、ヨーロッパとアジアでは「人間や動物の扱い方」が異なっています。特に、ヨーロッパでの考え方は、我々が輸入した「近代化」に近いようなものがあると思っています。近年では、石倉さんの先生でもあられる中沢新一さんが、長谷川祐子さんと「トランスフォーメーション」をテーマにした企画展を開催されました。また、海外では「脱人間中心主義」といった思想が登場しており、人間社会のあり方が変化しつつあるのではないかと思います。
今度は、動物や精霊のあり方という観点から、ヨーロッパ、あるいは他の国々とアジアの比較論のようなことを石倉さんからお話しいただいてもよろしいでしょうか?
 
※参考 トランスフォーメーション:2010年10月29日(金)〜2011年01月30日(日)(東京都現代美術館)
 
石倉:
「トランスフォーメーション」展のとき、私は現代アーティストのイルコモンズさんたちと一緒に世界中の変身物語から近年のサブカルチャーの領域まで、幅広くリサーチしました。「脱人間中心主義」の西洋的潮流では動物性というものを人間界の次元に拡張して捉えているように思いますが、アジアや他の先住民社会では人間と動物の境界線がそもそも曖昧です。こうした差異を内側から乗り越えていくものとして、アメリカの思想家、ダナ・ハラウェイ(Donna J. Haraway)のように聖書的に規定された人間と動物の関係を更新して、両者の間に新しい普遍性を構築しようとする野心的な潮流が台頭しています。ハラウェイは「動物が人間にとって重要な他者になりうる」と考えているようです。
例えば、犬を飼ったり訓練させたりすることにより、人間と犬の間に共通の習慣や経験の共有が生まれるだけでなく、体内細菌や所属意識までもが共有されていくような、一種の「コンタクト・ゾーン」が開かれるとハラウェイは考えます。つまり、単なる野生種の家畜化ではなく、双方向的な「共組織性(Sympoiesis)」という現象が生じるというわけです。また、家族のいない人間であっても、「コンパニオンアニマル※5」がいることで生きがいを持ち、お互いにかけがえのないパートナーになるという、現代人にとって非常に切実な主題もハラウェイの思想では重要なテーマです。つまり、洋の東西を問わず、人間が単独種として人間であったことは一度もなく、常に様々な動物と共生し、複数の種との関係において人間は成り立っているということが分かります。
 
また、ハラウェイは、サイボーグやAI、デジタルカルチャーのような、近未来を見据えた持論を展開しています。ヨーロッパとアジアのような歴史の異なる地域を比較することはもちろん重要ですが、他方で両者をつなぐ上で、古いものと新しいもの、一神教的なものとそうでない宗教性にとっての共通の根を掘り起こし、「人間中心主義」を超えた幅広い文脈を形成していこうとする潮流が現れてきているわけですね。
 
※5 伴侶や家族、友達と同様に位置づけられた、人と長い歴史を共に暮らしてきた身近な動物のこと。 コンパニオンアニマルとは(コトバンク)
※参考 
「サイボーグ宣言」ダナ・J・ハラウェイ(artscape)
※参考 
サイボーグ・フェミニズム(美術手帖)
 
こうした潮流から見ると、実はアジアのさまざまな社会に埋め込まれた芸術表現の世界観が、現代のアーティストにとって決して周縁的な関心事ではなくて同時代的な主題になりつつある、ということが見えてくると思います。東南アジアの現代アートにも、現代思想の主題と響き合う世界観が込められているように思います。そのような意味でも、東南アジアのアートは注目されており、様々な動物が人々の生活に根差しているということが、アート作品を通して鮮明に見えてきます。
例えば、クゥワイ・サムナンの『Popil/ポピル』という作品では、様々な動物のイメージが絡まり合ったような獣のイメージが、「仮面」として表れていました。これは日本で言えば、「鹿踊り(ししおどり)」に近く、これも複数の動物種が絡まり合って人間性を帯びて表れるという、精霊信仰の古い様式であると同時に、非常に現代的なテーマです。
 
※参考 鹿踊とは(コトバンク)
※参考 
鹿踊(花巻観光協会公式サイト)

  • 出典:Khvay Samnang/クゥワイ・サムナン『Popil / ポピル』(Aura Asia Contemporary Art Project)

『Popil/ポピル』に登場する2頭の龍による特徴的な踊りは、舞踏家の土方巽が極めていた「舞踏 Butoh 」とも、非常に親和性が強いのではないでしょうか。つまり、この作品は、パフォーマンスやダンスという文脈からも読み解くことができます。『Popil/ポピル』の中で描かれる踊りは、大地の上で人間が立って何かを表現したり、跳躍したりする「ヨーロッパ的なもの」とは違うと思います。常に流動的で変容していくという、非常に魔術的な要素を孕んでいるようにみえます。
 
※参考 土方巽(美術手帖)
 
今後、東南アジアの現代アートをきっかけに、人間に抑圧された動物性ではなく、他者性の強い存在として、「動物のあり方」を読み解いていくことが可能だと思います。あるいは、作品の中に非常に難解なイメージが組み込まれていたとしても、「アーティストたちが何を表現しているか?」を読み解くことで、その手がかりになるはずです。今後は、ヨーロッパ的な美術の読み解き方そのものが、アップデートされなければいけない。そのヒントが、今回のコレクション展の作品には多く含まれているように感じました。
 
【5】「共異性」とアート
 
宮津:
ここからは、本日のカンファレンスのタイトルにもある「共異性」について、お二人からお話を伺いたいと思います。
 
2022年に行われる世界的な芸術祭「ドクメンタ15(Documenta 15)」の芸術監督が、インドネシアでグループとしてアート活動を行っている「ルアンルパ(ruangrupa)」に決定しました。彼らのように「共にあることと、異なること」が両立しているような存在は数多くあると思います。
まずは「共異性」とは何か、石倉さんからご説明いただいてもよろしいでしょうか?
 
※参考 「ドクメンタ15の芸術監督はアート・コレクティブ『ルアンルパ』に決定。アジアから初の選出」(2019年2月23日、美術手帖)
 

「共異性」とは?

  • 「奥野克巳他『たぐい vol.1』(亜紀書房、2019年3月6日発売)」
    (「マルチスピーシーズ人類学研究会」による人類学専門誌。動物など複数種との関係性から、人間のあり方を探る。石倉敏明さんは、vol.1から著者として名を連ねている。現在、vol.3まで刊行。)
    出典:奥野克巳他『たぐい vol.1』(2019年3月6日発売、亜紀書房、亜紀書房のウェブショップ〈あき地の本屋さん〉)

「共異性」の基になっているのは「共異体」という概念です。元々、日本には「共同体」という言葉がコミュニティーの訳語として存在しており、日本の民俗学や社会学、文化人類学でも、「村社会」や「村落共同体」という言葉を用いていました。しかし、共同体には「同じ言葉や価値観を持った人間がグループを形成している」というイメージが強く、最初から均質的な集団であると思われやすいのです。
共生という現実を考える上で、均質性を打ち破るような異質な要素をどう概念化していけば良いのか。例えば近年、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジト(Esposito Roberto)によって、共同性を表す「コミュニティー」を補完する概念として、「免疫」を意味する「イミュニティー」という考え方が提示されました。身体を維持していくために異質なものを注入し、免疫をつけるのと同じように、移民や他の生物を含めて「どうすれば異物と共に生きていけるのか?」ということが、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタなどでも、最大の関心事の1つになっています。ヨーロッパは世界に植民地主義や資本主義といった矛盾を拡張しましたが、アートや人類学もその矛盾の中で生まれ、「異質な他者」との関係を結ぶ免疫的な技術を生み出しています。今後の世界でも、ヨーロッパが「異物」を受け入れなければいけないということが共通認識になりつつあるわけです。
 
ヨーロッパの未来にとって「イミュニティー」という概念が必要不可欠であるように、日本及びアジアの未来には「共異体」という視点が必要だと私は考えています。私事になるのですが、2017年に香港で行われた「r:ead(リード)」というプログラムに参加したときのことがきっかけになっています。

  • 「石倉敏明『野生めぐり: 列島神話の源流に触れる12の旅』(2015年10月30日発売、淡交社)より引用」
    ※出典:石倉敏明「リムランディア:東アジアの辺境を架橋する神話的ネットワーク」(2017年8月16日、r:ead)

当時、このプログラムでは、東アジアの5ヶ国のアーティストやキュレーターが集まり、様々な議論を展開していました。私は日本の神話と歴史についての見解を話し、台湾や香港の人たちには共感していただけたのですが、韓国のアーティストとキュレーターからは大きな反発があったのです。私は「他者の歴史を理解しようとするなら、他者の神話も理解しなければならないのではないか」と話しましたが、韓国のアーティストたちからは「過去の神話を乗り越えて、歴史とともに近代化していかなければいけないのではないか」という注意深い反論が返ってきました。
 
彼らと対話を続ける中で、韓国語通訳の方から教えていただいたのが、日本の哲学者、小倉紀蔵(おぐらきぞう)さんが提唱されている「共異体」という概念でした。私はこの概念を、アジア人が互いの共同性や共通性を前提とせず、異なる歴史や文化の来歴を認め合い、尊重するために極めて重要なものではないかと感じたのです。ここからヒントを貰い、「異なる神話・歴史を理解し合うような関係を、東アジアの中で作っていかなければいけないのではないか」と、韓国や他の地域のアーティストたちに提案してみると、最終的にはとても深い議論が成立し、相互の理解を深めることができました。
 
※参考 小倉 紀蔵(京都大学 大学院 人間・環境学研究科 総合人間学部)
 
私は東アジアだけでなく、東南アジアでも同じように「共異体」という概念の重要性を共有することができると思います。言葉や文化が異なり、違う価値観を持った集団が新しい価値観を作り出すパートナーになりうるのか。あるいは、巨大なマネーや国家的な価値観の衝突がないと前進することは不可能なのか。私は、前者の価値観を元に、アートの世界でも「異なること」を尊重しながら創造していくことが非常に重要だと思っています。
 
共異体という概念は、共同体にとってのオルタナティヴのビジョンを指し示すだけではありません。同時に、「人類は古くから、単独種による共同体社会ではなく、複数種による共異体社会であり続けた」と、私は思っています。人間が同質的な集団としてあり続けたことは一度もなかったと思いますし、仮にそうであったなら度重なる危機を生き残ることはできなかったでしょう。共異体は単なる言葉遊びではなく、現実的な概念であると考えていくべきなのではないでしょうか。
 
大阪とメコン地域の繋がり
 
宮津:
これまで、藪本さんがどのような作品をコレクションされてきたのか、また、今回のコレクション展を行うにあたり、どのような基準でアート作品を選んだのかということをお聞きしたいと思います。そのキーワードとなる「共異性」に対する考えを、藪本さんからお話しいただいてもよろしいでしょうか?
 
藪本:
私は直感的にコレクションを継続してきているので、うまく論理的に伝えられるかは分かりませんが、簡単に説明させていただきます。
 
私は、メコン地域に住んで11年目になります。各地のアーティストと対話を行い、直感のままコレクションを続けてきました。私は大阪で生まれ、和歌山県の紀南地域、白浜町で育ったのですが、大阪の人や関西の人と、メコンの人は根本的にかなり近い存在なのではないかと思っています。特に「熊野」という土地には山の文化があり、そして、何より縄文の古層に由来するアニミズム文化が色濃く残っています。もしかすると、「熊野」や「紀南」の人たちは、先住の縄文人と「水のゾミア」たちが築いた場所かもしれないのでしょうか。その意味では、私達は、同じでもあり、異なっているのかもしれません。
 
また、私には、大阪の生駒山麓から淀川と大和川で形成されるデルタ地域に心惹かれます。その意味では、メコン地域も大阪と同様に、メコン川流域で大きなメコンデルタを形成しており、メコン地域に惹かれたのは、偶然ではないような気がします。その中で私が興味を持ったのは「砂州」という言葉です。中村元著『ブッダのことば -スッタニパータ-』の中で、ブッダは砂州に関して以下のように述べています。

所有がないこと、
執着してとらわれないこと、
これこそがほかならぬ砂州であり、
それを私は涅槃と呼ぶ。
それは、老いと死の消滅である。

出展:「ブッタのことば -スッタニパータ-」

特に、メコン川だと乾季と雨季で水量が全然違うので、大量の砂州が形成されます。その砂州に色々な人たちが多く流れ込んできますが、大阪の人もメコンの人達の「優しさ」には、共通性を感じています。ブッタの言葉の通り、「砂州」には、より豊かに生きるためのヒントが溢れている気がします。
 
法律の世界からみると、パラドックスですが、最近、言語がわかり過ぎることが逆に紛争や戦争の原因になっている部分もあるのではないかと直感的に感じています。その意味では、アーティストたちと対話する際、異なる神話や物語をお互いに持ち寄って、ある意味、緩く楽しく話すことが世界平和のために重要なことなのではないかと思っています。言語に拘らないアートは、大きな役割を担う気がします。そのため、文化人類学的で神話学的な「異なるように見えて、実はどこかで繋がっているもの」を集める作業に価値があると感じ、「共異性」を視覚化するために、コレクションを行っています。
 
また、共異性の議論からは離れますが、経済人の視点として、「メコンのアーティストたちはハイパーローカルであり、ローカルとグローバルの世界を繋いでいる」のではないかと感じています。これは、現在のグローバリゼーションの問題を解決する可能性があると思います。一部の国では、表現の自由が未だに認められていない部分もあり、どうしてもグローバルな世界との接合が必須となります。さらには、メコン地域では国内にアートのマーケットが存在していない国が多いので、アーティストたちは制作した瞬間から全世界に輸出しなければならない状態になっているのだと思います。ただ、それが作品の強度につながっている気がします。そして、何より彼らの作品はローカルを突き詰めています。例えば、クゥワイ・サムナンの作品は、現地の歴史や文化、風土を数千年、数万年レベルで掘り起こしており、まさにハイパーローカルでありながらも、ハイパーグローバルな作品だと言えると思います。「ローカルな要素を極限まで追究したアート作品を全世界に輸出している」という観点から見ると、私は経済人、ビジネスマンとして、学ぶことばかりです。
 
現在の仕事柄、日本企業のグローバル展開は、アジアのマーケットを目掛けて、商品やサービス等をローカライズ化していきます。他方、彼らは、マーケットに合わせて作品を改変したり、市場を奪い合ったりするようなことはしません。そもそも、市場での競争に興味がなく、世界のどこかにいる普遍的な共振者や共感者とともにいます。そして、そこで得た原資は、地域社会の中で還元し、社会の基礎を下支えしています。前述のルアンルパやサ・サ・アートプロジェクトの価値はここにあるのだと思います。この価値や思想は、まさに船場資本主義という概念を生み出した大阪の中にもあるのではないかと確信しています。
 
【6】まとめ:今後の展望
 
宮津:
今年の11月に、共異性をテーマにした芸術祭「紀南アートウィーク2021」を和歌山県で開催します。この芸術祭では、山岳地帯の「籠もる」と、港から世界に向けて「ひらく」という「相反するように見えて、相反していないもの」がテーマになっています。和歌山県紀南地域で、アジアのアーティストの作品だけでなく、日本人の現代アーティストの作品も展示させていただきます。開催日程は、11月18日~11月28日です。もし、今回のコレクション展で現代アートに興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、こちらもぜひご覧ください。

  • 紀南アートウィーク2021:https://kinan-art.jp

石倉さんの展望
 
宮津:
時間の関係上、最後に、お二人から締めの言葉をお願いしたいと思います。
 
石倉:
今日のカンファレンスもそうですが、藪本さんの論考が全てを語っていると思っています。大阪、船場が持っているポテンシャルというのは、水の中から浮かび上がってきた「八十島(やそしま)」と言われていた砂の島々で、多島海の中にある「資本の集約地」であるということだと思います。
私の師匠でもある中沢新一先生が『大阪アースダイバー』という本の中で、大阪の上町台地から南北に「アポロン軸」という、垂直の秩序を形作るような軸が通っており、東西には生駒山からずっと死を司るような「ディオニュソス軸」があると述べられています。これらの軸の交点となっているのが砂州であり、船場資本主義の舞台であった。「船場資本主義」というのはまさに、砂が形をとどめずに流れていき、浮かんでは消えていく流動的なものだと思います。その中で信用経済が行われており、流動性が高い経済であっても生き残っていけるような「交換のシステム」が成立していました。

※参考 「区のあらまし:大阪市西淀川区」(大阪市西淀川区ホームページ)
 
そして、同じく中沢先生が最近発表された『アースダイバー 神社編』では、海洋アースダイバー的な、海のゾミアの問題と繋がっていきます。これをアートの方面で言えば、中沢先生が「Reborn-Art Festival 2019」でキュレーションした、ザイ・クーニン(Zai Kuning)の作品『海に開く』が良い例だと思います。氷河期に東南アジアにあったと言われている「スンダランド(Sundaland)」という巨大な土地から生まれた島々の歴史が、実は、日本の多島海の島々と繋がっているというテーマです。彼の作品のようなアートを通して、今後は大阪を捉え直す運動が必要になってくるのではないでしょうか。
 
※参考 ザイ・クーニン/Zai Kuning(Reborn-Art Festival 2019)
※参考 
スンダランドとは(コトバンク)
 
大阪は、日本の商業的な中心地として非常に重要な場所で、同時に日本の資本主義が生まれてきた要地です。とりわけ淀川の河口部に生まれた砂州は、まさに水の越境者であるゾミアたちが東アジアの大陸や半島、島々から集まり、交換を通して新たな価値のシステムを立ち上げていった場所でもありました。河原と砂州は、日本史学者の網野善彦さんがずっと論じてこられたような、縁と無縁という原理がせめぎ合う場所の原理を体現しているように思えます。つまり、流動性が高い空間の中で、究極的には自然からの贈与物であるモノを商品という記号に変容させ、人間の世界に流通させてゆく。そういう歴史のある境界の土地でもあります。「海のゾミア」は、こうしてメコン川と淀川、あるいはスンダランドと大阪を結ぶ重要な概念だと思います。
 
※参考 網野善彦とは(コトバンク)
 
他方で、大阪と和歌山は歴史的にも深い関係があり、和歌山はまさに日本的な「山のゾミア」が展開した場所ではないかと考えています。大阪や紀伊半島の港のように交易を行う「ひらかれた場所」と、和歌山のように南方熊楠が山の中で過ごしていたような「籠もる場所」。この2つの地域を往還するようなやり方で、藪本さんと宮津さんが紀南アートウィークを開催するというのは、とても大きな可能性があると感じています。
 
アートの文脈は、これまで非常にヨーロッパ中心主義的で人間中心主義的、あるいは男性中心主義的に構築されてきました。最近では、その考えを揺るがすようなフェミニズムや、非西欧圏のアート・コレクティブの動きもあります。「ドクメンタ15」の芸術監督を務めるルアンルパのように、流動的な思想や、新しい資本主義を越えるような実践の形がアジアからも続々と生まれています。大阪もこれまでの新自由主義体制から変貌を遂げる萌芽が、各地で現れつつあります。今後は、船場からも新たな脱資本主義、脱成長の流れが生み出されてくるかもしれません。
 
冒頭で藪本さんが「世界平和」と仰っていましたが、その想いをストレートに語ることができる財界人、経済人がいるのは、非常に重要なことです。松下幸之助の思想を継承するという意味でも、衰退期が続く日本を刷新するような視点が、アートからも出てこなければいけません。そういう意味でも、今回の船場アートサイトプロジェクトも、紀南アートウィークも、重要な動きの1つになるのではないかと期待しています。
 
宮津:
石倉さん、ありがとうございます。ザイ・クーニンはシンガポールのアーティストで、海の民、まさに海のゾミアですね。国境を越えて、海上生活者や海の民を追い続けているアーティストだと思います。
 
それでは、藪本さん、締めの一言をお願いします。

藪本さんの展望

  • 写真:しんぶん堂 https://book.asahi.com/jinbun/article/13900255

藪本:
今回、私が執筆させていただいた論考の中に、セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)の『脱成長』という本の言葉を引用しています。著書の最終章では「芸術の役割」について述べられており、その中で「アートは魔術に類似する力を持っているのではないか?」ということが書かれています。
 
※参考 セルジュ・ラトゥーシュとは(コトバンク)
※参考 
「人新世の脱成長論 セルジュ・ラトゥーシュによる『資本主義批判』の集大成」(2020年11月5日、じんぶん堂)

  • 写真:Komtouch Napattaloong,「Unmoved Expanded」2021, two-channel video, audio,21:43mins

  • 写真:Komtouch Napattaloong 「Unmoved Expanded」2021, two-channel video, audio,21:43mins

藪本:
コムトチ・ナパトーン(Komtouch Napattaloong)というタイの現代アーティストが、『Unmoved Expanded』という作品の中で、タイにおけるベトナムの「モン族」のコミュニティーのドキュメンタリー作品を制作しています。作中に登場するモン族の女性のインタビューでは、「何故、この2羽の鳥を描くのですか?」という問いに対し、彼女は「ただ、単純に美しいから(Just Beautiful)」と回答しています。
 
※参考 モン族とは(コトバンク)
 
まさに、ラトゥーシュが言っているのはこのことなのだと思います。アニミズムとは、物と環境を尊重する唯一の思想であり、最も重要なことは「世界の美しさの前で驚愕して、感動する直感と能力を再生すること」だと、彼は考えています。私は、現代のグローバル社会の中で経営を続けていますが、「美しいものに対して、ただ感動する」という感性は、現代社会の中にきちんと残っているのかと疑問に感じています。そして、これは、私がアートの世界で活動する大きな理由の1つでもあります。
 
私達、ゾミアの遺伝子の中には、アニミズムの思想が確実に埋め込まれており、これはまさに、ラトゥーシュが言う「世界の再魔術化」における重要な議論だと思います。別の言い方をすると「聖なるものの価値を再発見して、美しさに感動して驚嘆する力を回復する」ということをどう実現するかだと思います。これを実現するキーアクターとして、大阪、関西地方、メコン地域のゾミア達が今後、非常に重要な存在になっていくのではないかと感じています。
 
宮津:
藪本さん、ありがとうございました。
 
大変残念ですが、時間になってしまいました。
今、藪本さんから「再魔術化」という話が出ましたが、この考えも、近代に対するある種のアンチテーゼなのではないかと思います。ラトゥーシュ以外にも多くの思想家や哲学者達が、「再魔術」に関する議論を展開しておりますが、これについては、また次回、石倉さん、藪本さんと語りたいと思います。
 
それでは、ここで一旦締めて、総合司会の鈴木さんにお戻ししたいと思います。
お二方、ありがとうございました。
 
藪本:
ありがとうございました。
 
石倉:
ありがとうございました。
 
鈴木:
皆様、非常に深いお話をありがとうございました。
 
この「船場アートサイトプロジェクト Vol.1」は、ご好評につき、9月5日まで会期を延長して開催しております。藪本さんが代表を務めておられる「アウラ現代藝術振興財団」のコレクションも含めてお楽しみいただけますので、ぜひお越しください。
 
以上をもちまして、本日の「船場アートサイトプロジェクト Vol.1 カンファレンス『水の越境者(ゾーミ)たち -アジアの共異性を探る-』」を終了させていただきます。本日はありがとうございました。